◎練馬野にも空襲があった 92010/03/15

 押し黙ってしまった女性に替わり、今度は向かい側の席から70代半ば過ぎと思しき男性が話しかけてきた。先程来の会話が耳に届いていた風だった。男性も大泉の生まれだと言った。そして空襲の背景を解説してくれた。


 それによると、この辺りは最初から米軍に狙われていたのではないかということだった。かつて九州は国東半島の山の寺で聞いた、米軍の爆撃機が帰りの燃料節約のために余った爆弾を人家の少ない山中に捨てていった話とは全く趣の異なるものだった。

 男性が挙げた根拠は三つあった。うちふたつは紛れもない公知の事実である。一つはこの場所が太平洋戦争の開戦を前に移転してきた陸軍予科士官学校や陸軍被服廠など軍の枢要な施設(戦後は駐留米軍基地として接収され、返還後は多くが陸上自衛隊朝霞駐屯地となる)に近かったこと、もうひとつは光が丘に戦時中の昭和18年(1943)突貫工事で帝都防衛のための飛行場が建設されていたことである。

 三つ目はこの男性が子どもの頃に聞いた噂である。従ってこれが残された記録などに符合するものかどうかは分からない。内容からすればそのような記録はむしろ残っていないと考える方が自然だ。しかし噂の因になる何らかの作業が当時この地区でも行われ、それを地元に残る年寄りや女性や子どもたちの一部が目撃したであろうことは容易に想像できる。

 その噂とは飛行機の燃料であるガソリンにまつわるものだった。諏訪神社に近い場所に広がる雑木林の中には大量のガソリンが隠してあると村人たちの間に噂が流れていた。だからこの辺りは米軍から狙われているのだろうと大人たちが小声で囁き合った。当時まだ国民学校に通う小学生だった男性はその光景をはっきりと覚えている。(つづく)

◎練馬野にも空襲があった 82010/03/14

「被害はそれだけだったけどね。でも日本が負ける徴(しる)しではないかって、みんなが言ったんだ…」
「そんなことがあったのですか?」


「それから、別の空襲の時にはね、おばあちゃんが一人亡くなったんだ…」
「空襲で亡くなった人がこの辺りにもいたのですね?!」

「ウチの近所だけどね。丸山ってとこの近くで、おばあちゃんが孫と留守番をしていたときに空襲さあって、背中をやられたんだ…」
そう言って、一息ついて窓の外に目をやった。亡くなったそのおばあちゃんの顔が急に浮かんできたのかも知れない。

「おばあちゃんが、とっさに孫を抱えて地面にうずくまったんだって…。だから孫だけは無傷で助かったのよ。きっとおばあちゃんは身代わりになったんだって、みんなして言って泣いたね…」

 それっきり女性は押し黙ってしまった。封印されていた記憶が蘇り、辛くなったのだろう。目頭を押さえていた。(つづく)

◎練馬野にも空襲があった 72010/03/11

 次に質問したのは空襲のことだった。戦局が険しさを増す昭和19年秋以降、東京の上空にもアメリカ軍の飛行機が飛来するようになっていた。20年に入ると3月10日未明には最初の大空襲があり、東京の下町は火の海と化した。大規模な空襲はその後も4月13日、4月15日、5月25日と続いた。練馬野の空はどうだったのか。


「この辺りにもアメリカ軍の飛行機は飛んできましたか?」
「来たよ…、怖かった。電灯を消して、みんなで震えていた…」

「爆弾は落とされなかったですか?」
「落ちたよ。駅からはちょっと離れてるけど、小泉橋の近くに諏訪神社ってあるでしょう? あそこにね、落ちたんだよ…」
そう言って、諏訪神社が分かるかと尋ねた。

「あの、新座の平林寺の方に行くちょっと広いバス道路の脇にあるお宮さんですか? 」
 女性は小さく肯いた。

「お社を見たことはありませんが、あそこに落ちたんですか?」
「それがね、爆弾さ社務所の屋根を突き抜けて、ちょうどそこに納めてあった日の丸の旗に中ったの」

「…?!」
「日の丸の真ん中さぶち抜いて、大きな穴をこさえたの。みんなして見に行ったから、よく覚えているんだけど…」

 女性の話はまだ続いた。(つづく)

◎練馬野にも空襲があった 62010/03/10

「では千人針もされたのですね?」
「戦地で弾に中らないようにってね…」

 女性の顔が一瞬曇り、悲しそうに窓の外を見つめた。身内か大切な人を戦争で亡くしたのかも知れない。

「そう言えば、よく ▽△伍長の墓 などと誌されたお墓を目にしますね…」
「うん、大勢亡くなったからね。この辺りでも…」


 女性の説明によると兵隊にとられたのは長兄だった。親類縁者からも前途を嘱望された屈強な青年だったが、千人針の願いは届かなかった。長兄が生きて大泉の地を踏むことはなかった。まだ若かった両親の嘆きは、いま思い出しても胸が塞がるという。(つづく)

◎練馬野にも空襲があった 52010/03/09

 その頃、中国大陸では関東軍による東北部への侵攻作戦が慌ただしく進められていた。昭和6年9月には柳条湖事件を自演して満州事変の火ぶたを切り、翌7年には各国の意向を無視して満州国を樹立し、長い日中戦争の泥沼へと突入していった。昭和8年は満州事変に関するリットン調査団の報告書が国際連盟総会で可決され、日本政府が連盟からの脱退を余儀なくされた年でもある。

 だが練馬野も大泉も学園都市の建設を除いては昔と何ら変わることのない平穏な日々が続いていた。時折通る電車の音以外は馬のいななく声か風の音が響くばかりだった。住民には軍部の意図や政府の方針など知る由もなく、不満といえば板橋区への編入が決まって村役場が廃され何かと不便を感じることくらいであった。


 そんな練馬野ではあったが戦線の拡大に伴って、兵員需要を賄うための徴収の余波が次第に押し寄せるようになった。特に米英開戦が避けられない状況になると、働き盛りの若者がいる家々には次々に召集令状の赤紙が届けられた。危機感を募らせた女性たちの間に、誰言うとなく千人針をしようという話が持ち上がったのもこの頃である。

 千人針とは一枚の布に千人の女性が赤糸で一針ずつ刺し、全部で千個の縫い玉をつくって出征兵士に贈る布きれの意である。戦場に赴けない女性たちが編み出した切ない祈りのような運動でもある。その起源は半世紀前の日清・日露の戦役まで遡る。家族や親戚から贈られた千人針の腹巻きをいつもしていた出征兵士が戦場で危ない目に遭いながらも無事に帰還できたという言い伝えに村の女性たちは願いを託した。(つづく)

 ⇒ http://www.pref.shiga.jp/heiwa/popup/aha_22.html 千人針(滋賀県)

◎練馬野にも空襲があった 32010/03/07



 突然の変化に驚きながら、何かあるなと感じた。

「出征兵士の見送りには行かれましたか?」
「行ったよ…」
「どこの駅で見送ったのですか?」
「大泉学園さ…」

 明治の末年に設立された武蔵野鉄道が池袋~飯能間で営業運転を始めたのは大正4年(1915)の4月である。初めは汽車を走らせた。所沢までの電化が完成したのは大正11年、保谷までの複線化は昭和4年(1929)に完了した。大泉村に駅ができたのは大正13年11月のことである。駅名は東大泉と云った。

 これが現在の大泉学園駅に改称されたのは昭和8年3月のことである。当時の大泉村は昭和7年10月に誕生した東京市板橋区に属していた。市内35区中最大の面積を誇る板橋区の中にあって最も西寄りに位置し、人家まばらな文字通りの片田舎だった。昭和5年の国勢調査によると、1平方キロメートル当たりの人口密度はわずか423人である。板橋町8,505人、練馬町1,733人、上練馬村588人、中新井村2,026人、石神井村703人などと比べても、その寒村ぶりが際だっていた。(つづく)

☆熟語を読む 熾烈2010/02/27

【かな】 しれつ
【語義】 勢いが盛んで激しいさま。
【解説】 「熾」も「烈」も火の勢いが強く盛んなこと。ふたつを重ねることで、火の勢いが極めて激しく盛んに燃えるさまを表す。転じて気性や感情また競争や闘いなどの激しさを表すときに用いられる語となった。
【用例】 こうした日蔭者の気楽さに馴れてしまうと、今更何をしようという野心もなく、それかと言って自分の愚かさを自嘲するほどの感情の熾烈さもなく、女子供を相手にして一日一日と生命を刻んでいるのであった。(徳田秋声「縮図」)


☆読めますか この漢字052010/02/21

☆札
1.有名な神社でもらった御札をお守りにしている。
2.財布には新しく発行された御札が何枚か入っていた。
3.いくら謝っても許してもらえず一札入れろと要求された。
【解説】
1.おふだ:古来、災難や疫病から身を守ってくれると信じられている紙片。神社や寺院が信者向けに発行する。神仏の像や各種の呪文などが記され、袋に入れて身につけたり、柱や壁に貼ったりして用いる。護符、御守り、護摩札とも呼ばれる。
2.おさつ:紙幣のこと。政府など絶大な権力を持った機関が発行する。紙片を用いる点はおふだと変わらないが、金額が明記されていること、発行機関による金券としての保証があること、偽造が禁じられていることなどが大きく異なる。
3.いっさつ:証文のこと。個人の責任で約束したり保証したりした事柄について、後日のためにその内容を書き記したもの。札はやはり紙片を意味するが、作成者が個人である点が他のふたつとは大きく異なっている。

  明治元年(1868)に時の政府が発行した日本最初の政府紙幣・太政官札(だじょうかんさつ)

☆熟語を読む 未曾有2010/02/20

【かな】 みぞう
【語義】 過去にその例がないこと。非常に珍しいこと。
【解説】 漢文表現であり、訓読みすれば「未(いま)だ曾(かつ)て有(あ)らず」となる。中国・戦国時代の墨家の思想を説く「墨子」に「緩賢忘士、而能以其國存者、未曾有也」がある。意訳すれば「政策にぴりっとしたものがなく防衛も余り重視されない、そういう国が長く続いた試しがない」と云ったところであろう。曾ては過去のある時、昔の意である。現代では後に否定表現を添えた「かつてない」の言い方が一般的であり、「かつてないほどの大勝利」「いまだかつて負けたことがない」のように用いられる。なお未曾有は漢音ではなく呉音の言葉であり、文字に忠実に付せば「み・ぞう・う」となる。が、それでは発音しにくいため「ぞう」が「ぞ」と短縮され、この音が慣用されている。
【用例】 おそらくこれは盛典としても未曾有、京都から江戸への御通行としても未曾有のことであろうと言わるる。(島崎藤村「夜明け前」)

☆読めますか? この漢字042010/02/19

☆質
1.彼は元々口数の少ない質であったからその時も黙ったままだった。
2.うちの植木屋さんは昔気質の上に職人気質の人だから苦労させられる。
3.総理は野党側の質問に言質を取られまいと例ののらりくらりした口調で答えた。
【解説】
1.たち:人が生まれつきもっている性格や体質など。事件や事柄の性格・
性質についても用いられる。
「このところ―の悪い事件が続いている」
2.かたぎ:その人の育ち、環境、職業、時代などがその人の気風や容姿などに与える独特の傾向を云う。かつては形気や容気も用いられたが、用法の比重が容姿より気風を主とするようになって気質をあてる傾向が強くなった。
  むかしかたぎ:とかく新しいものは遠ざけ常に伝統や慣習を重んじる気風を云う。そのため律義者や頑固者と同義に扱われることも少なくない。
  しょくにんかたぎ:職人と呼ばれる人一般に見られる気風を云う。具体的には職人としての自分の技量・腕前に自信があり自分が手がけた仕事に高い誇りをもっているため、安易な妥協を嫌い、金銭面に心を動かされることが少なく、仕事の中身についても選り好みをするといった傾向が見られる。
3.げんち:和製の漢語で、言葉の質(しち)の意。後日の証拠とされるような発言、言葉上の約束を云う。一部には表記どおりの「げんしつ」も行われるが質が「しち」の意であることを踏まえ、「言葉」の省略形「言」の音の「げん」と「ち」を組合わせた「げんち」が一般的となっている。なお「―を取る」の反対は「―を与える」である。