◆紅梅と白梅 22010/02/24

 東京の西部には吉野梅郷で知られる青梅市がある。青梅市観光協会は紅白合わせて2万5千本もの梅が花をつける梅まつりの案内にはことのほか力を入れていて、関連のホームページも充実している。中でも便利なのが「ウメ図鑑」のページである。花の色別に紅白だけでなく淡紅や濃紅からも探せるし、さらに一重と八重の区別もあって、全部で61品種の特徴を写真入りで解説している。観梅の予習・復習には格好の教材と云えよう。

 ⇒ http://www.omekanko.gr.jp/ume/zukan.htm 青梅市観光協会

 このページにはほかにも花の色や形・大きさなどの用語や色名についての解説があって観梅用としても梅の品種を知る上でも実に有用だが、もうひとつ注目したいのが「「梅の分類と特徴」を表形式で解説したページである。この表では梅の種類をまず花梅と実梅に分けている。後者は果実の収穫を目的とするものだから花より実ということで、「利用性の高い良質な実をつける品種を、果樹として分類している」といった簡略な説明しか行っていない。


 だが前者の花梅については野梅系、紅梅系、豊後系の3種に大別し、さらに詳しい細分も行っている。それによると花梅は、アンズとの雑種性の強いものがまず豊後系として分類され、残ったものが野梅系か紅梅系のいずれかに分けられる。この野梅系・紅梅系に分ける際の基準あるいは視点が、前回紹介した白梅・紅梅の問題と深く関わっている。(つづく)

  紅梅のお手玉六つ七つ八つ まさと

◆紅梅と白梅2010/02/23

 分類というのはどの部分に着目するかで結果も変わってくる。梅を例に採れば、花の色で分ける、花びらが一重か八重かで分ける、花の形で分ける、実の大きさで分ける、開花の時期に注目するなどいろいろな基準や視点がありそうだ。だが医薬品と健康食品の区別を意識せず薬局の主に勧められるまま高価な健康食品を買って飲み続け、これを医者が処方したがらない秘薬と信じ込む老人もいるように、言葉というのはよほど注意しないと思わぬところですれ違いを起こし、気づかぬまま使われ続けることも少なくない。

 食品を医薬品と信じ込んで飲み続けても心理面への影響と財布の中身への影響はあるだろうが、それが直ちに健康や病状に深刻な被害をもたらすとも思えない。だが医薬品を食品と信じて食べ続けたらどうなるだろうか。薬害などという言葉を持ちだすまでもなく、結果の恐ろしさについては容易に想像がつく。食べるほどの医薬品が手に入らないようにするためにも、この種の商品については法的な規制や対策が必要と多くの人が考えるだろう。


 話を元に戻して、では梅の場合はどうだろうか。苗木市で紅梅と聞いて買い求めた梅が無事に根付き、めでたく花芽を付けた。ところが咲いてみたら、これがどれも白い花だった。買い主は騙されたと思うだろうか、どこかで入れ違ったと思うだろうか。狐に摘まれたような気分かも知れない。この話は、白梅とか紅梅といったごく普通のありふれた言葉であっても時にその中身をよく確かめないと、思わぬ誤解や勘違いの因になることを教えている。世の中には多くの人が抱く白梅や紅梅のイメージとは別の、その道のプロだけが知る紅白を分ける基準が存在するのである。(つづく)

  白梅の青きまで咲きみちにけり 小坂順子

○春の山道2010/02/22

 久しぶりに遠出をした。といってもドライブではない。いつもの散歩道を途中で右にも左にも折れずにどんどん先へ先へと進んで、尾根を一周して戻ったまでの話である。3時間余りの道のりだった。途中には寂しいところもないわけではない。友人を誘って賑やかに出かけた。


  菜の花が咲いて人待つ谷の道 まさと

 出かけるたびに何か発見がある。それも大抵は乱開発の現場に遭遇するといった不運なものが多い。そういう嫌な目に遭うことが重なると、どうしてもその方角へは足が向かなくなる。開発を許可したり見て見ぬふりを続ける為政者に腹が立ってくる。だがそんなことを言っているといずれ散歩もできなくなるとか、年寄りの我が儘だなどと陰口をたたかれるのが相場だ。

 幸い今回の遠出では、そこまでの痛ましい開発現場には遭遇しなかった。その代り遠目に見える家々がどこか草臥れているようにも感じられた。いずれも高度成長期に誕生した新興の住宅地である。住人の年齢が確実に高くなってきた証拠であろう。


 それでも写真の木々のように、地面に広く深く根を張り、踏まれても踏まれても、たとえ一部は伐られようともしぶとく生き続けて欲しいものだ。そうすれば山道を下った先に、春の訪れを告げる菜の花が咲いていることもあろう。

◆リンゴの話2010/02/20

 先月、「季節外れ」の話をしたばかりである。今頃リンゴの話を持ちだすのは典型的な季節外れと言われそうな気もする。だが青森県りんご果樹課の資料を見ると、今や青森りんごの出荷は一年を通して行われている。しかも1~3月は出荷量の最も多くなる時期である。1月2月3月と尻上がりに増えている。(2006年産実績)

 ⇒http://atsso.asablo.jp/blog/2010/01/26/4839152 季節外れ
 ⇒http://atsso.asablo.jp/blog/2010/01/27/4839991 季節外れ 2
 ⇒http://atsso.asablo.jp/blog/2010/01/28/4841310 季節外れ 3
 ⇒http://atsso.asablo.jp/blog/2010/01/30/4843865 季節外れ 4

 たかがリンゴと思ってはいけない。先月も書いたが、ことリンゴに関する限り食卓における季節感はもはや過去のものとなりつつある。花はともかく季題としてのリンゴの果実は、よほどの工夫や精進がないと佳句には結びつかない。難しい時代を迎えている。


 されどリンゴはりんごであり、林檎である。第一に、その名称からして謎だらけではないか。現代中国では apple は林檎とは呼ばない。どうも苹果 (ping guo) と呼ばれるようだ。耳で聞けば似ている気もするが、漢字・林檎の出自はどうなっているのか気になる。第二に、リンゴが一年中口に入るようになったきっかけは保存技術の進化だろう。さすれば、そこから何か学ぶことがあるはずではないか。

 第三に、昨今の学校教育は経済や金融など money に関わることも積極的に子ども達に教えているとか。それならばリンゴの流通は格好の教育材料となるはずだ。収穫されたリンゴがどのような経路をたどって食卓まで届くのか、知ることも悪くない。何よりリンゴは日本人にとって大変馴染みの深い果物である。商売や経営の基本を学んだり、食の安全について考えたりする上で身近な素材となるだろう。ということで、明日からリンゴについて考えてみることにした。(つづく)

◎言葉の詮索 暖か(3)2010/02/19

 結局、手元の辞書では疑問を解消することができなかった。「大辞林」の説明は丁寧と云うより饒舌に近く、ますます疑問の深まった気がする。「広辞苑」の説明は的こそ外していないものの、どこかに物足りなさが感じられる。日本語の辞書にありがちな、言葉の本質や背景にあるものを見極めようとする態度に欠ける事例のひとつと云えるだろう。


 昔の人はよく「暑さ寒さも彼岸まで」と云っていた。夏の暑さも秋の彼岸を過ぎる頃にすっかり和らいで、逆に暑さが恋しくなるくらいに陽気が変わる。冬の寒さも春の彼岸を過ぎる頃には寒に逆戻りすることもなくなって暖かな春のぽかぽか陽気に変わっている。そんな先人たちの経験を伝える言葉である。この言葉こそ暖かという語の本質、そして秋暖や暖秋があり得ないことを教えてくれる最良の説明ではないだろうか。

 暖かとは瞬間的には「大辞林」が云うように「暑くも寒くもなく、また熱くも冷たくもなく、肌に気持ちのよいぬくもりを感じさせる温度」という説明でよい。だが上記の謎に答えるためには瞬間的な暖かさの説明だけでなく、それをいつ感じるかという生身の人間の生活に即した時間的な背景説明が必要である。

 人間が暮らすのは真空地帯や実験室の中ではない。暦の変化があり、季節が移り変わる中で暮らしている。環境や時間の変化を忘れた瞬間的な説明では暖かさの本質を見抜くことはできない。だから秋暖や暖秋が仮想であることの説明もできないのである。最後に小子の定義を紹介しよう。

 暖かとは、一度寒さや冷たさを経験した後に、ほどよい温もりを感じる程度にまで気温や水温などが上昇するさまを云う。(了)

  あたたかと開口音を四つ重ね 佐藤一村

○待ちに待った青空そして夕焼け2010/02/18

初冬から彼岸過ぎまでの四ヶ月余りをたった一日で体験したような、そんなめまぐるしく空模様の変わる一日だった。

 まず目を覚ました時、窓の外には雪が舞っていた。ところが、もう一眠りして目を覚ますと、一体どれくらい降ったのかも分からないほどに溶けてしまっていた。あの雪はもしかしたら夢の中だったのではと思うほどだった。


 夕方、散歩に出た。待ちに待った青空が広がっていた。いつもの寺に着いて見上げると、上空を飛行機が通過して行った。やっぱり青空はいい。


 いつものように石段を登り、庫裏、本堂、阿弥陀堂、釈迦堂と境内を順々に一巡りした。山の中腹まで来た時、峯の枯れ木に止まっている大きな鷹の姿を見つけた。日はだいぶ西の空に傾いていた。


 坂を下って庫裏の前に戻ると、ちょうど松の木の向こうに夕日が沈みかけていた。急いでシャッターに収め、境内を後にした。

  らちもなき春ゆふぐれの古刹出づ 下村槐太


 家路につくためもう一度山道を登ると、西の空に沈みかけた夕日の残光が厚い雲の向こうからさかんに「さようなら」と手を振っていた。明日の空模様が気になる。週末は気のあった友だちと久しぶりのハイキングを予定している。晴れて暖かくなるよう祈って、家路を急いだ。


◎言葉の詮索 暖か(2)2010/02/18



 そこで試しに「あたたか」を手元の辞書で引いてみると、次のように説明されていた。いずれも先頭部分の原義と思しき説明だけを転記し、転義などは省いている。

○広辞苑(新村出編 岩波書店 1955.5)気候や温度が暑過ぎずほどよいさま。
○大辞林(松村明編 三省堂 1988.11)暑くも寒くもなく、また熱くも冷たくもなく、肌に気持ちのよいぬくもりを感じさせる温度であるさま。あったか。

 これを見てすぐに気づくのは両者の文字数の大きな違いである。「広辞苑」の17字に対し、「大辞林」は3倍の52字を費やしている。しかしそれ以上に、両者には決定的な差がある。前者が「暑過ぎずほどよい」としているのに対し、後者が「暑くも寒くもなく、また熱くも冷たくもなく」とした点には注意が必要である。

 なぜなら後者の説明をもし妥当とすれば、秋暖や暖秋もあり得ることになってしまう。すでに述べたように秋暖も暖秋も実際には存在しない、仮想の言葉である。そうした言葉をなぜ聞くことがないのか、この説明から窺い知ることはできない。一方、前者の説明にはこうした疑問の生じる余地がほとんど残されていない。説明を「暑過ぎず」と簡潔にして、秋暖や暖秋の混じり込む余地を排している。(つづく)

  暖く乙女椿も焦げにけり 滝春一

◎言葉の詮索 暖か2010/02/17

 寒中には暖かな日射しの降り注ぐ春のような陽気が続いたのに、立春を過ぎてからというもの日本列島はすっかりお日様に見放されてしまった。毎日のように北風が吹き、時には冷たい雨が降り、ところによっては雪や霙(みぞれ)に見舞われる寒い季節に逆戻りしてしまった。せめて言葉の上だけでも、ここらで春の準備をしておきたい。


 そう考えていたら今年も法事を知らせる案内状が届いた。立春を過ぎる頃から毎年、この季節になると親戚などから法事の通知が葉書や封書で送られてくる。それらの文面は決まって「春暖の候」という書き出して始まっている。これが秋の法事だと「秋冷の候」に代わる。春暖や暖春は聞くが、秋暖も暖秋も聞いたことがない。暖冬とはいうが暖夏とは云わない。なぜだろう。辞書はこの疑問に答えてくれるだろうか。(つづく)

  あたゝかになる日を母のために待つ 栗原米作

○紅梅づくし2010/02/16

 寒紅梅の紅色が寒中の切れるような青い空に映えたのは先月のこと。立春を過ぎてからというもの、二月の空ははっきりしない曇天が続いている。天気図を見ると、青い空など列島のどこに行っても拝めそうにないことが分かる。そんな中でレンズに収めた今月の紅梅たちの一部をご紹介しよう。

  紅梅の咲きしづまりてみゆるかな 蛇笏

  紅梅に薄紅梅の色重ね 虚子

   うつろひて薄紅梅はややみだら 大橋越央子

  紅梅や見ぬ恋つくる玉すだれ 芭蕉

◎季節の言葉 残る寒さ・余寒2010/02/14

 寒が明け春が立ってもう十日も過ぎたというのに一向に春めいてこない。いや春めいたと思ったら次の日からまた寒の底に突き落とされたように寒い日が続く。あれほど吹いた南風もどこかへ消えて、シベリア下ろしの冷たい北西の風ばかりが吹いている。一度春暖を感じた後の寒さは特に堪える。文字を打つ手が凍えるように冷たい。


 今年は寒暖の差が激しいせいか訃報が多い。すでに3人を見送った。つきあいの程度は様々だが中には子ども時代の思い出に残る数少ない遠縁の小父も含まれる。遠縁にあたることは最近になって知った。義理の叔父の姉にあたる人の連れ合いだから、あるいは遠縁よりもっと遠い関係かも知れぬ。だが、何時も手ぬぐいで頬被りをして忙しく働く姿は鮮明である。精米所に勤務し、時には庭先にもやって来て移動精米をしてくれた。ご冥福を祈りたい。

  忌の人のおもかげ小さく余寒なほ 恩田秀子