夏から秋へ--蕎麦っ喰い(2)2012/09/24

 可愛いハートの形をしたソバの花が終わると、花のあとには、これまた独特の菱形をしたソバの実がつく。ソバの実は鋭く尖った頂部をもつ硬い外皮(ソバ殻)に覆われていて、うっかり触ると痛い。実が付いたソバは刈り取って乾燥させ、実だけ落とし、さらに外皮を除いて石臼などで挽くと、蕎麦粉ができる。


 これを捏ね鉢に移し、水を加えてよく捏ね、最後に平らに打ちのばして包丁で細長く切る。最後に茹でれば蕎麦のできあがりとなる。こう記すと至極簡単なようだが、事実は全く逆である。繋ぎに何を使うかも含めて手打ち蕎麦の魅力は食べる側だけでなく、つくる側にもあるようだ。どの地方にも昔から蕎麦打ち名人と呼ばれる人がいて、それぞれの技・極意を伝えている。

 子どもの頃、裏山をいくつも越えたところに子どもから年寄りまで村中みんなが蕎麦を打つ小さな集落があった。どの家も、その村の蕎麦を一度口にした者はもう他村の蕎麦は食べる気になれないと言われたくらい美味い蕎麦を打ち、客人に振る舞った。が今、その村に住人の姿はなく、かつてのソバ畑は木々に覆われ深い山と化してしまった。

  ありがたや 新蕎麦喉を 清めけり  まさと

 彼岸を過ぎる頃、ソバの産地には走りの蕎麦が出回り始める。その年収穫の新蕎麦はのど越し、歯ざわり、香りのいずれをとってもどこかに瑞々しさがある。蕎麦っ喰いには嬉しい季節だ。運良く巡り会うと、なぜか若さまでもらったような気分になる。(つづく)

夏から秋へ--蕎麦っ喰い2012/09/23

  蕎麦はまだ 花でもてなす 山路かな  芭蕉


 俳句の先覚、芭蕉ならではの句と言えよう。この季節、地方を旅すると、あちこちで車窓からソバの白い花を目にするようになった。例年より早く今日から新蕎麦を出し始めた店もあると、ラジオが伝えていた。もうそんな季節に入ったのである。

 ひと頃、国内のそば粉は中国からの輸入物が圧倒的に多かった。あちこちの蕎麦屋で中国産の粉を使っているとか混ぜているといった類の噂が絶えなかった。だが農林水産省の説明では近年、中国からの輸入物は確実に減っている。

 その陰で確実に増えているのが米国からの輸入そば粉である。まだ量としてはそれほど多くないが、それでも国産そば粉3万トンの半分に達する。一方、中国産は減ったとは言え、国産のまだ1.5倍近くもある。

 こういう数字の問題は、このブログの守備範囲ではない。蕎麦の味は元より、そば粉の産地を大事と思う方々には農林水産省の次の資料をお勧めしたい。国内の主産地なども分かるし、何より作物統計を利用する際の手引きとして便利だ。(つづく)

 ⇒ http://www.maff.go.jp/j/tokei/kikaku/digest/pdf/soba_yunyu.pdf  グラフと絵で見る食料・農業


夏から秋へ--稲莚(いなむしろ)2012/09/22

 温暖化や亜熱帯化の影響もあるのだろう年々、稲刈りの時期が早まっているように感じる。その刈り取りの一週間か十日前の稲作地帯の景色はそれはそれは見事なものである。黄金色に輝く稲の穂が田んぼごとに絨毯でも敷き詰めた如くに見える。古代の人々はこの景色を稲莚と称した。

  小山田に風の吹きしく稲莚 夜鳴く鹿の臥し所なりけり  如願法師

 その稲莚がどこまでもどこまでも続いているのである。昨日もそうした光景を目にしたが、あいにくカメラをもっていなかった。そういえば昨年も一昨年もなぜか、稲穂が黄金に波打つこの季節にはカメラを持たずに出かけることが多い。そして黄金色の光景を目にして悔しがる。残念だが手元には、八郎潟のような広大な平野部の情景を収めた写真がない。それでも稲莚の大凡のイメージくらいは感じていただけよう。


 稲莚は秋の季題でもあるが、莚そのものが現代人の生活とは遠いものとなり、これを知る人も・そうした景色を思い浮かべることのできる世代も稀となった。この季語による雄大な情景の創出を期待することはもはや無理なのかも知れない。なおこの季題は、稲藁を編み上げて作った敷物としての稲莚をテーマにしているわけではない。枕詞にもされ、両方が登場する和歌の場合とはこの点の異なることに注意したい。

  稲むしろ 近江の国の 広さ哉  浪化

 この作者もまた先日の「秋の色」の句の園女と似て、芭蕉の影響を強く受けた江戸中期の俳人である。

夏から秋へ--稲穂2012/09/21

 早くも「新米をいただきました」という便りがラジオから流れる季節になった。今日は秋分の日である。今年も豊作だが、我が家に新米が届くのはもう少し先になる。そこで新米の句はお預けにして、間もなく刈り取られ稲架(はざ・はぞ)で十分に干された後に脱穀され、そして精米されて我が家にも届くであろう新米候補たちの今の様子をお目にかける。


  稲垂りぬ 幾千万も 露を抱き  小野房子

 野菜もそうだが温暖な場所で何事もなくすくすくと育ったものより朝晩の冷気と日中の暑熱に鍛えられて育った、やや高地の米の方が単純な旨味だけに終わらない深い味わいがある。次の写真の左側は朝露に濡れた粳(うるち)米の稲穂、右側は夕陽に照らされた糯(もち)米の稲穂である。普通に釜で炊いてそのまま食べるのが粳、蒸して杵で搗いて餅にするのが糯である。


秋の色2012/09/20

 黄金に色づく稲穂、山肌を彩る黄や紅のモミジ、色づいた桜の葉、イチョウの葉などをつい思い浮かべてしまうが、それは我ら凡人世界の目玉に映る景色であって侘び寂の世界で用いられる「色」の話はそうした絵の具の色選びとはだいぶ趣が異なっている。たとえるならカメラのレンズを通して季節季節に感じる、あの光の色とでもいったらよいだろう。


 ススキの穂の写真は背景の空気が爽やかで光の色も清々しく、いかにも秋を思わせる一枚ではある。だが「秋の色」というときは、同じ場面を切り取っていてもどこかに他の季節とは違う感じの残る景色、「そうか秋が来ているのか」といった感じのする情景を指すのである。時には盛りを過ぎて感じる一抹の寂しさも混じる、そんな複雑さも備えた季題といえるだろう。

  木や草に 何を残して 秋の色  園女

 大正か昭和の作を思わせる平明かつどこかに知的な香りのする句だが、作者は三百年も昔の女性である。初出とされる原典(羽黒月山湯殿三山雅集)を自分の目で確認するまで、どうにも信じ難い作品であった。


敬老の日・祝日法--大根日記(5)2012/09/18

 さて私的な話題はこれくらいにして、話を本題に戻そう。敬老の日というのは「国民の祝日に関する法律」によって定められたものである。この法律は昭和23年(1948)7月に制定され、一般には祝日法とか国民祝日法と呼ばれている。制定当時の祝日は元日、成人の日、春分の日、天皇誕生日、憲法記念日、秋分の日、文化の日、勤労感謝の日の計8日である。残りの7日はその後の改正によって追加された。

 この法律は全3条から成る簡単なものだが、第3条だけは当初の「「国民の祝日」は、休日とする。」という至って簡潔な条文に、何遍読んでも理解できない2と3の二つの追加がなされ難解な内容に変わってしまった。これらは次のページで容易に確認できるから是非ご覧いただきたい。

 ⇒ http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S23/S23HO178.html 昭和23年7月20日法律第178号

 第1条ではまず法律制定の目的に触れ、「自由と平和を求めてやまない日本国民」が「美しい風習を育てつつ、よりよき社会、より豊かな生活を築きあげるため」と述べている。制定当時の時代的な雰囲気を感じさせる文言である。また、そもそも「国民の祝日」とはなんぞやという点については「国民こぞつて祝い、感謝し、又は記念する日」であると説明している。

 次に第2条では具体的な祝日をおおむね月日順に列挙し、その内容を簡単に述べている。それらの全てを今ここで取り上げる余裕はないが、全てが上記の3種類に収るような内容・説明であるかは疑わしい。例えば体育の日、あるいは文化の日はそれぞれの説明を読んでも祝う・感謝する・記念するのいずれに該当するものか判然としない。また春分の日と秋分の日の説明の差も庶民の感覚とは明らかに異なっている。とても第1条にいう「美しい風習を育てつつ」を考慮した説明には思えない。

 いろいろ言い出すときりがないのでこの辺で止め、本日のテーマである「敬老の日」に絞ると、この日は「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う。」と記されている。但しこの日は後の改正によって追加されたもので、昭和23年の法律制定当初から存在した祝日ではない。制定に先立つ同年2月3日の衆議院文化委員会で行なわれた祝祭日に関する最初の審議経過を振り返っても、敬老を伺わせるような表現や9月中旬の候補日は見あたらない。

 この日が追加されたのは祝日法最初の改正となった昭和41年(1966)6月のことである。何かと物議を醸(かも)した建国記念の日、10月10日と定められた体育の日と同時期の追加であった。因みに前年昭和40年の日本の人口構成を見ると、65歳以上が占める割合は6.3%でしかない。生産年齢と呼ばれる15~64歳が68.0%、14歳以下の年少人口も25.7%を占めていた。そういう活力溢れる時代の「敬老の日」であった。

 以来50年近く、日本の人々は右肩上がりの経済成長を信じ、自分はまだ十分に若い・働けると信じ、加齢には医療技術や製薬技術や美顔術などで抗(あらが)いながら、ひたすら消費に邁進した。そして、次の世代を生み育てる努力を怠ってしまった。これが、当初9月15日としていた敬老の日を平成13年(2003)6月の改正で9月の「第三月曜日」に切り替え、同様に1月15日の「成人の日」を1月の「第二月曜日」に切り替えた便宜主義的行動と通底することは容易に想像がつく。

 もはや「その日」に対するこだわりだけでなく、「国民こぞつて」感謝する・祝うといった意識までもが薄れてしまったのではないか。単に休日を増やすための方便に、これらの日が体よく利用されたに過ぎない。海の日や体育の日にしたところで似たようなものであろう。東日本大震災後、急速に広まった原発に対する不安も、もしかしたら「きずな」という言葉もこれと似たようなものかも知れない。これが日本文化の有り様だとしたらあまりにも寂しい。

敬老の日--大根日記(4)2012/09/17

 今日は敬老の日。前々回の記事で触れた母は大正8年(1919)に生まれ、独居を断念するきっかけとなった昨年末の事件まで入院経験なしの生活を続けてきた。通院は20年ほど前、他人に勧められて「持病」の心臓病の診察を受けに公立病院を訪れた1回だけである。そのとき処方された薬を服用して「ひどい目に」あって以来、医者嫌いとも言える状況が続く。それでも月2回、2週間おきに巡回してくる地域の診療所の看護師の訪問だけは受けていた。

 こう記すと母はいかにも健康そうに感じられるが、真偽のほどはよく判らない。その理由は第一に、診療所の医師によると心臓に「持病」のような症状は見られないが若干血圧が高めであるとのことだった。母は数年前から「血圧の薬」と称して、この医師の処方したものを確かに服用していた。また同じ頃に父が亡くなり、「夜、眠れないことがある」と看護師に訴えて睡眠導入剤を処方してもらうようになった。これらの診療・投薬に要する費用(自己負担額)は月々3千円くらいであったと聞く。

 理由の第二は、昨年末の入院事件で判った保険外費用の存在である。そのひとつは農協の置き薬代が毎月1万円前後もかかったこと、また処方された薬の配達に訪れる町の薬局の主人に勧められて飲用が始まった各種サプリメントの支払いが毎月やはり1万円を超えていたことである。母は薬局が勧めるサプリメントを次の二つの理由で毎日必ず飲んでいた。一つはテレビのワイドショウ番組でよく話題にされること、もう一つは祖父(母の実父)から「医者の薬は効かないから具合が悪いときは薬局の高い薬を飲まないと駄目だ」と聞かされていたことである。

 町の薬局が届けるサプリメントも農協の置き薬も処方箋に基づく投薬も、母にはみな同列の「薬」と映っていた。独り暮らしの母が信じたのは医学的な知識でも医者の言葉でも身内の言葉でもない。自分の財布から出てゆく金額そのものだった。その差こそがまさに効能の差であると信じて疑わなかった。加えて、症状が改善しないのは服用量が少ない=薬代を惜しむからだという妙な「自信」のようなものまで付けてしまった。だから年末に入って風邪をこじらせると当然のように手元の総合感冒薬・解熱鎮痛剤・睡眠導入剤・各種サプリメントを次々と過剰に服用し、面倒な食事の準備は後回しにして布団に横たわった。そして「後半日、発見が遅れたら」というところまで病状を悪化させた。

 幸いにも大事には至らず、新年早々に退院を許された。但し独居は不可との条件付きだった。さんざん揉めた末、我が草庵に落ち着くことになり、今は全く新しい住環境(食事環境+文化環境)の下で暮らしている。退院から8ヵ月以上が過ぎ、酷暑の夏もどうやら峠を越えた今、事実として言えることは退院したそのときから薬というものを全く口にしていないこと、もちろんサプリメントの類の利用も皆無なことである。朝昼晩きちんと定時に食事を取り、午後のおやつにお茶と少々のお菓子(または煎餅)を口にするのみの生活が続く。

 だから保険診療の公費負担分月額2.7万円(患者負担1割として)のことも、薬局・置き薬関係の支出の月額2万円余のことも次第に母の記憶からは遠ざかりつつある。そしてよく眠る。悩みと言えば「大きい方がたまにしか出てくれない」ことだろう。腰は数年前から、くの字に曲がってしまった。長い歩行には杖が欠かせない。だが痩せ落ちた肩や背中の肉は元に復し、痩せ細っていた腕も元の太さを取り戻した。食事作りは止め(新しいガス器具の操作に不慣れ)、洗濯物を干したり取り込むこともできない(腰を伸ばすのが難儀)が、農作業ほどのこだわりを見せることもない。悟った様子もないが惚ける気配もない。

 本人は来春の定期健診まで健康診断を受けない・その必要がないと言い張っている。ところが昨今のような何かと難しいことの多い世の中では、年寄りがあまり医者から遠ざかるのも感心できないものらしい。何より行政側に生存の確認の取れないことが大きな理由のようだ。医者要らずの健康・元気者がもっと歓迎されるような「普通の」世の中でありたい。保険診療が年1回・定期健診のみの被保険者(例えば50歳以上、60歳以上、65歳以上の)には多少でも追加の所得控除が受けられるとか、翌年の保険料負担が軽減されるとか、KKR(国家公務員共済組合連合会)の保養所の優待利用券でも配られるといった恩典・健康奨励施策があれば目標にもなろう。励みのない、ただ徴収あるのみの徴税国家ではつまらない。(つづく)

夏から秋へ--雲(3)2012/09/15

 相変わらず日中は暑いが、朝晩はそれでもだいぶ楽になった。もう少しの辛抱だと自分に言い聞かせながら仕事をしている。朝晩が過ごしやすくなった理由を素人なりに考えてみると、やはり太陽に行き着く。日の出の時刻が六月七月の頃とは相当に違っている。夏至の頃は朝四時半にはもう日が昇っていた。今は五時をかなり過ぎないと太陽にお目にかかれない。


 困るのはいつまでも日中の気温が高いままなのに、日射しが容赦なく部屋の中まで入り込むようになったことである。以前は日中の室内気温の低下を、この入り込む日射しで補っていた。だから有難かった。ところが昨今は迷惑この上ない。真夏のように、もう少し高いところのままでいてくれないかと恨めしくなる。


 とは言え、日中でもあちこちに日陰のできる場所が多くなった。上手くコースを探せば、こうした日陰の道を秋の風に吹かれながら心静かに散歩することだってできるだろう。来週はもう彼岸の入りである。かくして、今年もまた一年が終わってしまうのだろうか。

  秋雲の 白き見つづけ 部屋くらし  篠原 梵

夏から秋へ--雲(2)2012/09/14

 この季節、東西南北の空に姿を見せる雲の種類が夏の雲から秋の雲へと代わりつつある。東や北にはまだ夏の雲のそびえ立つこともあるが、南や西の空には徐々に一捌け塗ったような秋の雲が多くなった。


 西山の向こうに陽が沈み空の色が変わり始めた頃、透けて見えるような雲の下を、西へ向かう旅客機の細く白い姿が見えた。高度3千メートルくらいのところを水平飛行しているはずだから、雲の位置はそれよりもはるかに高いことになる。秋の空を高いと感じるのは、実際に高く遠いところまで視界が利くからだろう。(9月8日撮影)

  夢殿の 夢の上なる 秋の雲  野田別天楼



福島の桃2012/09/13

 我が家ではもっぱら到来物の桃の実だが、この桃だけは例年の桃といささか事情が異なっている。贈り主が丹精込めて育てた自作の品でもなければ、百貨店などに依頼した贈答品でもない。ただ「福島の桃」というだけで、あちこち転々とした末に我が家にたどり着いた数奇な身の上の桃の実である。妙な時代になったものだと嘆息せずにはいられない。

 これまでは岡山や山梨産の桃を食することが多かった。だが今回この桃の実を囓って、すぐに「これが自分の記憶にある桃の食感・桃の味だ」と感じた。身のしまり加減、固さ、歯ごたえ、そして甘さといっぺんに嬉しくなった。しかし、お礼を言いたくても肝心の育ての親・生産者が判らない。桃の実に口がきけたらきっと畑の様子くらいは教えてくれるだろうにと残念でならない。


 余談だが、俳句では桃の花は春の、実は秋のそれぞれ季題とされる。昨今は中元の贈答品として立秋前に出回るものが少なくない中で、この季節にまだ桃の実が食せることも教えてもらった。これも「福島の桃」のお陰である。

  伯母が来て 桃を手土産 母は留守  虚子