■与党の野党化--新釈国語2009/07/28

 政権党であるはずの与党があたかも野党に転じたかのごとくに野党側の政策などをなりふり構わず批判し始めること。政党としての姿勢が後ろ向きになりがちなことから否定的な評価を受ける場合が少なくない。こうした傾向がますます野党化の速度を早めるとの指摘もある。また国政選挙における与党側大敗北の前兆・前触れと見る識者も少なくない。

 ⇒http://atsso.asablo.jp/blog/2009/07/12/ なりふり

■往生際--新釈国語2009/07/27

 追いつめられ、もう駄目だと観念して諦める瞬間。観念して諦めるさまにも用いられる。多く「往生際が悪い」の形で用いられ、諦めきれずにいつまでもぐずぐずしているさまをいう。往生はあの世に「往って生まれる」の意であり、死後に極楽など他の世界で生まれ変わることをいう。際(きわ)はその間際を指す。この言葉は、早く退陣または退場して欲しい相手がいつまでもそこに踏みとどまっている場合などに、退陣や退場を望む側の気持を代弁する表現としてよく用いられる。

■生前葬--新釈国語2009/07/25

 人間はいずれ必ず死ぬものであるという前提に立って、故人となる前のまだ元気なうちに世話になった人や旧友などを招いて宴会を催し、謝辞を述べたり懇談して最期の別れの代わりとすること。葬とは死者をほうむるの意であり理屈上は死後に行われるべきものだが、この造語はそうした意味合いを完全に無視して儀式部分だけを形式的に借用した。当人が死去した後の葬儀を、たとえ故人の遺志によるとはいえ全く行わずに済ませるかどうかは最終的には遺族が決める問題である。そのため生前葬の挙行をもって本来の葬儀が不要になるかは一概には論じられない。また死期の予測は容易ではないため、これをいつどの時点で行うかも難しい問題である。ホテルやレストランが結婚披露宴など宴会部門の売上げ減少対策に打ち出した新戦略のひとつでもある。

■蒸し返し--新釈国語2009/07/25

 すでに解決した事柄や多くの人が忘れかけた事柄などを再び持ち出して問題にすること。本来は一度蒸して食事に供した饅頭などが食べ残って冷めたり固くなったりしたものを、もう一度蒸しなおすことで改めて食事に供されることをいう。返すは「繰り返す」の意である。蒸しなおしは食品としての質の低下を招くだけでなく、時に味や臭いや見た目をも悪くすることがあり歓迎されない。この言葉にも多分にそうした意味合いが含まれている。

■窮余の策--新釈国語2009/07/24

 追いつめられ、どうすることもできなくなってから苦し紛れに思いつきで行う対策や行動のこと。言葉の意味合いは多分に否定的であり、策を評価しようとする意図は感じられない。時に嘲笑の意が含まれることもある。なお窮には能動的な「きわめる」の意と受け身的な「きわまる、追いつめられる」の意があり、窮尽は前者の例、窮余は後者の例になる。余は「すえ、のち、そのあと」の意であり、窮余は追いつめられ身動きができなくなったそのあとを表している。窮余の一策、窮策ともいう。

■上調子--新釈国語2009/07/23

 この言葉が耳に「うわっちょうし」と響いたときは、いわゆる御調子者(おちょうしもの)の言動などを評したもので全てに落ち着きがなく上滑りで軽々しいさまをいい、困ったものだという意味合いを言外に含んでいる。また「うわちょうし」と響いたときは株式や為替などの相場が上昇傾向にあることを指し、言外に喜びが含まれている。さらに「うわぢょうし」と響いたときは常磐津、清元、新内、長唄などの邦楽用語であり、多数の三味線を使ってする演奏において高音域の旋律だけを担当する三味線をいう。文字にすれば同じでも、その意味合いが政界と経済界とでは大きく異なるので注意が必要である。

■たらい回し--新釈国語2009/07/22

 ある事柄や地位などを法律の範囲内であることを口実に馴れ合いや馴れ合いに近い簡略な手続きによって都合のよい身内などに次々と順送りし、決して他の者には触れたり近づいたりさせないこと。たらい(盥)は手や顔などを洗うために水を入れておく器を指す。元の意は、それを銘々が揃えて自分専用に使うのではなく仲間内でひとつの盥を買い求め、それを皆が順々に送り回して利用することをいった。現在では政権や一部の役職などのありようを示す言葉として主に用いられ、あたかも既得権であるかのように一部の政党や団体内で顔ぶれだけを替えながら独占し続けるさまをいう。
 なお一部の辞書やそれらに基づくインターネット辞書の中には、これを曲芸としての盥回しに由来する語と解説したものも見られるが、それらは回すことの意を誤解した安直な説明であり、利用に際しては十分な注意が必要である。

■政治道徳--新釈国語2009/07/21

 真の政治家であれば国民の代表者として、忘れずに必ず守り続けるはずの道徳。具体的には公平無私であること、政治責任を負うこと、有権者の顔を思い信を問う勇気を忘れないことをいう。道徳には法律に見るような外的な強制力はなく常にその人の内面的な原理として働いている。そのため政治家が己(おのれ)の行動について法律を持ち出しての弁解や釈明を始めたときは、政治道徳にもとる行為があったと見なして差し支えない。真の政治家と政治家風の輩(やから)とを見分ける重要な尺度のひとつである。

 ⇒http://atsso.asablo.jp/blog/2009/07/01/ 政治家

■優良誤認--新釈国語2009/07/20

 実際よりも著しく優良であると表示したり広告宣伝すること、また他の商品に比べてあたかもその商品が優れているかのように顧客に思わせる命名・品質表示・広告宣伝などを行うこと。具体的には普通の牛肉を国産有名ブランド牛肉であるかのように表示して販売すること、人造ダイヤを使ったネックレスを天然ダイヤであるかのように表示して販売すること、入院給付金の計算方法を実際とは異なる事例や説明によって医療保険の販売をすることなど多くの例がある。いずれも景品表示法で禁じられ、違反する行為があると認められる場合は公正取引委員会による排除命令などの措置がとられる。うまい話や都合のいい話はたとえ相手が有名企業や老舗であっても、うっかり載せられないような用心深さが常に必要である。

 ⇒http://www.jftc.go.jp/keihyo/yuryo.html 優良誤認

 なお政党のマニフェストや立候補者個人の公約の中にも同様の手段を用いて有権者に誤った認識を抱かせるものが紛れ込んでいないとも限らない。投票先の選択に当たっては何度も同じ手に惑わされない冷静な判断力と人を見る目が求められる。

 ⇒http://atsso.asablo.jp/blog/2009/07/01/ 人を見る目

■自分の首を絞める--新釈国語2009/07/20

 結果として自分を苦しめるような愚かしい行為や軽はずみな行為をたとえていう。誰も自分で自分の首を絞めようなどと思って行動を起こすことはない。そうではなくて、楽になろう得をしようと考えるから始めるのである。しかし結果は時に思惑とは逆になり、今以上に苦しく悪くなってしまうことがある。だから用心が肝心なのである。人が用心を忘れ、あまり深く己(おのれ)を顧みることなく、得をしようと欲で物事を始めたとき起こるのがこういう結末である。
 国民に信を問うことなく政争を繰り返す政治家風の輩(やから)、政党の力とタレントの人気を区別できない衰弱頭の政治家、何でもポスターに頼る陣笠議員など、地道な日常活動の不足しがちな人々がテレビ映りのために無理な演技に走る場合はとりわけ注意が必要である。