◆責任力--変な日本語2009/08/02

 見出しにするのも躊躇(ためら)われるほど、へんてこな造語が新聞の見出しを飾るようになった。先月末に発表された自民党の政権公約(マニフェスト)の表紙に見える言葉のことである。しかも誰も文句を言わない。表現の自由を尊重しているのか、あの総裁にしてあの言葉ありと諦めているのか、その背景や事情は分からない。

 まさか誰もそんな言葉が存在すると本気で考えているとは思えないが、しかし活字の影響力というのは侮れない。恐ろしい力を持っている。嘘や出鱈目でもそれが活字という綺麗な文字になって新聞紙面や雑誌やテレビの画面に登場するようになると、子どもだけでなく大人までがそんな言葉もあるのかと頭の中の辞書に書き込んでしまう。だから無視するのではなく、この不可思議な造語に注釈を付けることにした。

 責任能力とか責任感というなら分かる。辞書にも見出しがある。だが責任+力では何とも理解のしようがない。そもそも責任とは自分が引き受けて行わなければならない任務や義務のことである。何を引き受けて貰うかは基本的には国民・有権者が決めることである。もし何を引き受けられますよと言いたいのであれば、それは能力の意味だから責任能力と書けば済む。しかし今頃それを言い出したのでは、これまでがいかにも無責任だったように聞こえるし、責任能力がなかったようにも響く。それで「能」を省いて「能ある鷹は爪を隠す」とでも洒落たつもりだろうか。

 また自分が関わった事柄や行為から生じた結果に対して負う義務や償いのつもりであるなら、それにわざわざ「力」を付けたり公約に記すほどのことではない。時代の流れに逆行するような格差社会を生んだ責任を取って政権を他党に譲るか、早く国民に信を問うべきだった。それを任期が切れる今頃になって責任政党とか何とか言われても、腹が立つ以外に反応の示しようがない。ただ呆(あき)れるばかりだ。

 もうひとつ明確なことがある。何人もの大臣や政府高官が不祥事を起こし、任期中に次から次へと辞めたことだ。これだけは確かだ。まさかこれらの辞任事件をもって責任を取ったとか、どうだ責任を取らせる力があるだろうと誇示しているわけでもあるまい。だが、この説明が一番真実みがある。やはり国民を侮っているということか。

 かつての政権党には、もっとましな人士が大勢いたように記憶する。表面は立派でも裏ではただ腹黒いだけだとか私腹を肥やしすぎると酷評する大人も少なくなかったが子供心には、多少の学問もし、学問がない人にはそれなりの後見役が付いているように見えた。ところが最近はこれが文字通りの三流学者かそれ以下の怪しい先生ばかりになってしまった。

 常に迎合を旨とする後見役では無理が生じ、政策は綻(ほころ)びる。言葉には誤使用が増える。人間に寿命があるように、政党にも寿命があるのかも知れない。法人は本来、私人のそうした限界を超越するために考え出された知恵のはずだが、どこかに計算違いでもあったのだろうか。早く総選挙が終わり、せめて変な日本語だけでも速やかに消えて欲しいと願っている。

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