■冤罪--新釈国語2009/06/05

 罪のない者に無理に罪を着せて刑に服させること。広義には罪がないのに疑われることも含む。漢字の冤はワ冠が覆いを表し、無実の象徴である兔(うさぎ)を上から覆って動けなくしている状態とも、元々兔には事を曲げるの意があったとも言われ、この一字のみで「道理を曲げて無理に罪を着せる」意となる。「罪」は字義に疎い人にも理解しやすいようにと書き添えたか、「えん」のみでは同音が多く紛らわしいと考えたか、あるいは語調を整えるために添えられたものであろう。
 現代においてもなお冤罪が生まれる背景には罪を憎むあまり時に理を忘れる人間社会一般の弱さがあり、それを世論にまで押し上げるマスコミの働きがあることを無視できない。しかし誤った刑の確定という狭い意味の冤罪について考えるならば、この過程に直接関わることができるのは、その事件を「犯罪」と見なして捜査に当たる司法警察職員、その結果を受けて公訴を提起する検察官、そして公判で審理を担当する裁判官の三者のみである。これらの全てが「疑わしきは罰せず」という司法手続き上の大原則を無視して無理な判断を下すか、またはそれぞれの能力に限界があることを忘れて(もしくは限界に気づかずに)無理に際どい判断を下すかしたときに冤罪は生まれている。
 前者の場合は弁護人の説得力の不足や注意喚起力の不足があると冤罪を防ぐことは難しく、後者の場合も弁護人の注意喚起力の不足や能力不足があると罪を晴らすことは望めない。被告人をただただ絶望させることになる。

恵みの雨--田圃のある風景2009/06/05

 都会では春の長雨は嫌われますが、この時期の雨は稲作農家にとってはまさに恵みの雨です。雨が降れば代掻きができ、お田植えができるからです。恵みの雨には慈雨という表現もあります。慈雨の要点は、ほどよい時に、ほどよく降ることです。近年のような土砂降りは斜面の土を押し流すだけです。歓迎されません。せっかく蒔いた種まで掘り起したり、弾き飛ばしたり、押し流してしまいます。作物をゆったりと包むように降る雨、隅々までじっくりと潤し育ててくれる雨、それが慈雨です。
 都会の人々が雨を嫌うのは、それだけ生活が人工的になった証拠でしょう。今世紀の終わりには宇宙空間の作物栽培工場で育てた米や麦を地球に運んで、地球人が仲良く分け合って食べるような仕組みでも造るつもりでしょうか。それとも地球人は宇宙空間で生活し、地球はもはや生物の住めない天体と変わるのでしょうか。そのとき食べ物はどうするのでしょう。月にでも工場団地を造成し、作物栽培用の一大工場を建設して供給基地にするつもりでしょうか。

蛍袋--梅雨の草花2009/06/05

 先月末から梅雨入りを思わせる天候が続いています。傘を持っての散歩は面倒とばかり外出を控えていると、あっという間に季節が進んでしまいます。いつの間にかホタルブクロが庭の隅で咲き始めていました。
 子どもの頃の思い出が多い草花でもあります。見るたびに必ず浮かんでくるのが長靴を履いた作業着姿の父です。この花を初めて教えてくれたのも父でした。雨降り草という意味でしょうか、父はこれを「あめっぷり」と呼んでいました。もっといろいろなことを教わっておけば良かったと今頃になって悔やんでいます。

  雨雲やほたるぶくろは刈り残す 岡田和子

東雲--アジサイの季節2009/06/06

 東雲(しののめ)は東の空がわずかに明るくなる頃を指して古代の人々が名付けた呼び名です。日の光の変化を示す言葉のひとつと考えられます。現代の人々は日の光を避けるためにわざわざ雨戸を閉めたり遮光カーテンを使いますが、古代の人々にとって太陽は生きる力そのものでした。視力を働かせることができ、狩猟や栽培に精を出せるからです。だから日の出には敏感でした。寝ていても日の出には必ず気づくよう明かり取りを工夫していました。その仕掛けが篠の目であり、やがてそこに微かな日の光を感じる時間も同様に「しののめ」と呼ばれるようになったのです。
 今の季節で言えば3時台に当たるでしょうか。紫陽花は一年で一番昼間の長い季節に咲く花です。寝不足にならないものかと案じられます。今日の一枚は撮影者が現代人のため厳密には東雲よりやや遅れた時間に、寝ぼけ眼(まなこ)で構えたカメラに収まっていました。

■ぶれる--新釈国語2009/06/06

 ある基準から見て、それとの差が大きくなることを示す俗語的な表現。写真撮影ではシャッターが降りる瞬間にカメラが動くと撮影された写真の中にカメラの動きが記録されて画像がずれたり二重写しになったりすることがあり、こうした現象は手ぶれと呼ばれている。カメラの普及にともない、この写真用語が一般の言葉にも影響を及ぼしたのではないかと推測される。従来の言い方では、清音の「振れる」が一般的だった。
 なおこの言葉は明確な基準や確たる基軸が存在する場合に、それらの基準や基軸との対比として用いるべきであって、昨今の政治家や一部の政党の議論に見られるような主張の単なる二転三転やご都合主義的な議論の推移変遷とは質的に異なるものである。マスコミにおける日本語力の低下を示す言葉と言えよう。

早苗--田圃のある風景2009/06/06

 昨日の風景を田植え前と呼ぶなら今日の風景は田植え後とでも呼ぶべき1枚です。田圃というスタート台に並び、秋に向かって、まさに「ようい、どん」で成長を始めようとしている稲の苗たちです。
 今は小さな田圃でも機械植えが主流のため昔のように植え手の個性が稲の並びや間合いに出ることはありません。それでも田圃の隅など場所によっては、機械が使えないため丹念に手で植えて補う人もいます。いくら機械化が進んだとは言っても、よく見ればそれぞれの田圃に耕作者の個性が現れているのです。
 なお小さな画面では無理かも知れませんが、この写真には苗の間を元気に泳ぎ回るたくさんのオタマジャクシが写っています。頭としっぽだけの、生まれて間もない蛙の子どもたちです。

■しゃしゃり出る--新釈国語2009/06/07

 マスメディアを通じて広く国民に顔を知られるため政治家などが事あるごとにカメラの前に立とうと派手な行動をしたり、何かにつけて目立つ発言を繰り返すこと。次の選挙での当選に不安を抱える新人議員などに共通する行動との指摘もある。一般には、分をわきまえない人がその人に関係のないことや求められてもいないことに対して口を出したり手を出したりすることをいう。男尊女卑傾向の強い時代や社会においては女性の行動一般を指して用いられることもあった。一説に「差し出る」ことを罵っていう言葉だとされ、すでに江戸時代の浮世草子にその用例を見ることができる。

棚田--田圃のある風景2009/06/07

 山あいの傾斜地に麓から尾根へ向かって一段また一段と階段のように幾段も続く小さな田圃、それが棚田です。田圃は畑と違って豊富な給水が必要です。水持ちもよくないと稲を作るのは難しくなります。先人たちは日当たりのよい山の斜面に水持ちのよい場所を見つけては藪を伐り、土を起こして均し、畦を付け、水を引き入れて、せっせと田圃を増やしてきました。
 多少遠くても傾斜を利用すれば谷川から水を引くことは難事業ではありません。それに家族など少人数の力だけで水田を開くには、棚田のような狭い場所の方が好都合だったのです。田圃は全体が常に水に浸かっているよう水平に造る必要があります。そうでないと水の管理ができないからです。
 これが広大な平地より先に、山あいの不便な場所に水田が開かれた理由です。ブルドーザーのような機械のない、人力と鍬と鎌だけが頼りだった時代の話です。山の斜面は、地盤さえしっかりしていれば平地のように水害に見舞われる危険もありませんでした。
 こうした努力によって河川上流部の保水力が維持され洪水の発生を防いできた点も見逃せません。いま各地に広がる休耕田の原野化を目にするたびに洪水被害の拡大が案じられてなりません。と同時に、先人たちの知恵も汗も継承できない我が身の不甲斐なさが情けなくなります。ただただ申し訳なく思うばかりです。

紫陽花--アジサイの季節2009/06/07

 六月の花アジサイには分からないことがいくつもあります。現代語表記では「あじさい」ですが歴史的仮名遣いに従えば「あぢさゐ」です。「名義抄」には「アヅサヰ」とあります。まず「あぢ」「さゐ」なのか、「あづ」「さゐ」なのか分かりません。「さゐ」はヤマユリの古名です。季節は一致しますが、花としての類似点は浮かびません。「あぢ」「あづ」も実はよく分からない言葉です。「あづさ」「ゐ」なら元の言葉は分かりますが、なぜこの花に「あづさ」を冠するのか説明が付きません。(つづく)

  あぢさゐや つじつまあはぬ ゆめのすじ 高橋 潤

四葩--アジサイの季節2009/06/07

 この難しい漢字は「よひら」と読みます。葩(は)は華の意、つまり花のことです。
王安石の詩に「山路葩卉多し」とあります。古来、日本では木の葉や紙のように薄くて、ある広さを持ったものを「ひら」と呼んできました。そうしたものの数を表すときに使います。「ビラをまく」の「ビラ」も恐らく、この「ひら」に由来する言葉でしょう。
 花の場合も、この定義に当てはまるものは「ひら」と呼びます。そして「桜の花びらが散る」とか「足下にひとひらの花が舞い落ちて」などと使います。漢字を当てる人は多く「片」や「枚」を用いますが、これを「ひら」と読める人は少なくなりました。いずれ「ひとひら」や「ふたひら」は死語になるのかも知れません。
 日本語史の資料としても注目を集める「夫木和歌抄」(ふぼくわかしょう)には、夏の部を開くと紫陽花を詠んだものが11首記録されています。うち8首に、同時に詠み込まれているのがこの「よひら」という言葉です。「よひらのはな」が紫陽花の別名とも言われる所以です。

  夏もなほ心はつきぬ紫陽花の四葩の露に月もすみけり  藤原俊成