○待宵草(3)--盛夏 ― 2009/08/02
この花を宵待草と呼ぶのは全くもって大正時代に流行った抒情歌謡「宵待草」のせいだろう。「待てど暮らせど来ぬ人を」で始まる、あの歌である。この歌はその後、太宰が「富嶽百景」を書いた1938年には松竹によって映画化され、その主題歌としても歌われた。主演した高峰三枝子(故人)の歌はレコードにもなった。最近は倍賞智恵子さんが吹き込んだものを聞くことが多い。
この歌の原詞は竹久夢二が書いた。流行り歌になったものは西条八十が補作しているが、花の呼称を宵待草とした部分の歌詞は変っていない。わざわざ待宵草に変える理由はなかった。というよりもマツヨイグサではuとiで音の響きがよくない。ヨイマチグサならiとiでうまくゆく。難しく言えば著作者人格権のひとつである同一性保持権にも関わる問題と言えるが、そうした法律や権利の絡む話ではない。純粋に歌詞としての質が問われる問題である。竹久夢二がこの造語を考えた理由や背景を忘れてはいけない。
日本語には○○待ちという言葉が少なくない。日待ち、月待ち、風待ち、心待ち、客待ち、七夜待ちなどいろいろなところに使われている。漢語なら待宵でも、歌にするときはやはり日本語風に宵待とするのが自然だ。マツヨイグサは漢語タイショウソウの訓読にはなっても日本の歌の歌詞には馴染まない。この点を見逃しては夢二の苦労も伝わらない。
今日の写真は朝の7時に撮影している。雨が降らなかったので昨日のように濡れてはいないし、雲が厚く太陽が顔を出すこともなかったので何とか撮影できた。しかし時間が遅い分だけ花が萎みかけている。萎んだ花は全体に赤みが強くなり、暫くはそのままぶら下がっているが、やがてぽろりと落ちてしまう。(了)
この歌の原詞は竹久夢二が書いた。流行り歌になったものは西条八十が補作しているが、花の呼称を宵待草とした部分の歌詞は変っていない。わざわざ待宵草に変える理由はなかった。というよりもマツヨイグサではuとiで音の響きがよくない。ヨイマチグサならiとiでうまくゆく。難しく言えば著作者人格権のひとつである同一性保持権にも関わる問題と言えるが、そうした法律や権利の絡む話ではない。純粋に歌詞としての質が問われる問題である。竹久夢二がこの造語を考えた理由や背景を忘れてはいけない。
日本語には○○待ちという言葉が少なくない。日待ち、月待ち、風待ち、心待ち、客待ち、七夜待ちなどいろいろなところに使われている。漢語なら待宵でも、歌にするときはやはり日本語風に宵待とするのが自然だ。マツヨイグサは漢語タイショウソウの訓読にはなっても日本の歌の歌詞には馴染まない。この点を見逃しては夢二の苦労も伝わらない。
今日の写真は朝の7時に撮影している。雨が降らなかったので昨日のように濡れてはいないし、雲が厚く太陽が顔を出すこともなかったので何とか撮影できた。しかし時間が遅い分だけ花が萎みかけている。萎んだ花は全体に赤みが強くなり、暫くはそのままぶら下がっているが、やがてぽろりと落ちてしまう。(了)
●月(にくづき・4画) 3 ― 2009/08/02

3.にくづき
新字体に統一される前の月の字は肉月と区別され、横に2本並ぶ梯子の右端が僅かに離れていた。但し昔の活字は摩耗が早く紙型の痛みも早いので小さな活字で印刷されていると、見ただけでは区別が付かない。4号くらいの大きさがあれば、すぐに分かるだろう。肉月は梯子の左右が2本ともしっかり繋がっている。
さて元々肉部に属した有が誤って月部に入れられたことは既に述べた。漢の時代のことである。服のことも話したが、能(ノウ)もなぜ肉月なのか説明がつかない。この字のム+月はエン(捐から手偏を取り去った字)という黒を表す字に由来し、右の2つのヒは獣の意である。黒い獣つまりクマの原字と見る説が有力である。
他の大方の字はたいてい身体の一部に関係しているから、ここで改めて説明する必要もないだろう。例えば肩は旧字体では最初の一画は一ではなくノを横に倒した形をしていた。これにコを書いて、さらにノを付けた。つまり左右の肩をかたどった象形文字である。月はもちろん肉の意でよい。育(イク)の字の月も肉だが、この字は形声文字であり、肉の役割は音だけだと言われる。大事なのはその上に載る鍋蓋(卦算冠)とムの部分とにあり、これが母の胎内から生まれ出る子どもを表していた。つまりこの部分は象形文字になっている。
肯定の肯(コウ)の字は会意文字である。骨と肉とが合わさって出来上がったと言われる。上に載る止が骨の略字であり、骨に硬く付いた肉が原義である。敢えて、うべなう、がえんじるなどはいずれも後から借用によって付けられた意味と言われる。胡座(コザ・あぐら)や胡弓(コキュウ)の胡(コ)は北方異民族の「えびす」を指すときに使われるが、これも元は顎の下の垂れ下がった部分の肉を表すためにつくられた形声文字である。古が音を表し喉(コウ・のど)に由来すると言われる。漢字の成り立ちには、なかなか一度くらいの説明では理解できない点が多く難儀する。
新字体に統一される前の月の字は肉月と区別され、横に2本並ぶ梯子の右端が僅かに離れていた。但し昔の活字は摩耗が早く紙型の痛みも早いので小さな活字で印刷されていると、見ただけでは区別が付かない。4号くらいの大きさがあれば、すぐに分かるだろう。肉月は梯子の左右が2本ともしっかり繋がっている。
さて元々肉部に属した有が誤って月部に入れられたことは既に述べた。漢の時代のことである。服のことも話したが、能(ノウ)もなぜ肉月なのか説明がつかない。この字のム+月はエン(捐から手偏を取り去った字)という黒を表す字に由来し、右の2つのヒは獣の意である。黒い獣つまりクマの原字と見る説が有力である。
他の大方の字はたいてい身体の一部に関係しているから、ここで改めて説明する必要もないだろう。例えば肩は旧字体では最初の一画は一ではなくノを横に倒した形をしていた。これにコを書いて、さらにノを付けた。つまり左右の肩をかたどった象形文字である。月はもちろん肉の意でよい。育(イク)の字の月も肉だが、この字は形声文字であり、肉の役割は音だけだと言われる。大事なのはその上に載る鍋蓋(卦算冠)とムの部分とにあり、これが母の胎内から生まれ出る子どもを表していた。つまりこの部分は象形文字になっている。
肯定の肯(コウ)の字は会意文字である。骨と肉とが合わさって出来上がったと言われる。上に載る止が骨の略字であり、骨に硬く付いた肉が原義である。敢えて、うべなう、がえんじるなどはいずれも後から借用によって付けられた意味と言われる。胡座(コザ・あぐら)や胡弓(コキュウ)の胡(コ)は北方異民族の「えびす」を指すときに使われるが、これも元は顎の下の垂れ下がった部分の肉を表すためにつくられた形声文字である。古が音を表し喉(コウ・のど)に由来すると言われる。漢字の成り立ちには、なかなか一度くらいの説明では理解できない点が多く難儀する。
◆責任力--変な日本語 ― 2009/08/02
見出しにするのも躊躇(ためら)われるほど、へんてこな造語が新聞の見出しを飾るようになった。先月末に発表された自民党の政権公約(マニフェスト)の表紙に見える言葉のことである。しかも誰も文句を言わない。表現の自由を尊重しているのか、あの総裁にしてあの言葉ありと諦めているのか、その背景や事情は分からない。
まさか誰もそんな言葉が存在すると本気で考えているとは思えないが、しかし活字の影響力というのは侮れない。恐ろしい力を持っている。嘘や出鱈目でもそれが活字という綺麗な文字になって新聞紙面や雑誌やテレビの画面に登場するようになると、子どもだけでなく大人までがそんな言葉もあるのかと頭の中の辞書に書き込んでしまう。だから無視するのではなく、この不可思議な造語に注釈を付けることにした。
責任能力とか責任感というなら分かる。辞書にも見出しがある。だが責任+力では何とも理解のしようがない。そもそも責任とは自分が引き受けて行わなければならない任務や義務のことである。何を引き受けて貰うかは基本的には国民・有権者が決めることである。もし何を引き受けられますよと言いたいのであれば、それは能力の意味だから責任能力と書けば済む。しかし今頃それを言い出したのでは、これまでがいかにも無責任だったように聞こえるし、責任能力がなかったようにも響く。それで「能」を省いて「能ある鷹は爪を隠す」とでも洒落たつもりだろうか。
また自分が関わった事柄や行為から生じた結果に対して負う義務や償いのつもりであるなら、それにわざわざ「力」を付けたり公約に記すほどのことではない。時代の流れに逆行するような格差社会を生んだ責任を取って政権を他党に譲るか、早く国民に信を問うべきだった。それを任期が切れる今頃になって責任政党とか何とか言われても、腹が立つ以外に反応の示しようがない。ただ呆(あき)れるばかりだ。
もうひとつ明確なことがある。何人もの大臣や政府高官が不祥事を起こし、任期中に次から次へと辞めたことだ。これだけは確かだ。まさかこれらの辞任事件をもって責任を取ったとか、どうだ責任を取らせる力があるだろうと誇示しているわけでもあるまい。だが、この説明が一番真実みがある。やはり国民を侮っているということか。
かつての政権党には、もっとましな人士が大勢いたように記憶する。表面は立派でも裏ではただ腹黒いだけだとか私腹を肥やしすぎると酷評する大人も少なくなかったが子供心には、多少の学問もし、学問がない人にはそれなりの後見役が付いているように見えた。ところが最近はこれが文字通りの三流学者かそれ以下の怪しい先生ばかりになってしまった。
常に迎合を旨とする後見役では無理が生じ、政策は綻(ほころ)びる。言葉には誤使用が増える。人間に寿命があるように、政党にも寿命があるのかも知れない。法人は本来、私人のそうした限界を超越するために考え出された知恵のはずだが、どこかに計算違いでもあったのだろうか。早く総選挙が終わり、せめて変な日本語だけでも速やかに消えて欲しいと願っている。
まさか誰もそんな言葉が存在すると本気で考えているとは思えないが、しかし活字の影響力というのは侮れない。恐ろしい力を持っている。嘘や出鱈目でもそれが活字という綺麗な文字になって新聞紙面や雑誌やテレビの画面に登場するようになると、子どもだけでなく大人までがそんな言葉もあるのかと頭の中の辞書に書き込んでしまう。だから無視するのではなく、この不可思議な造語に注釈を付けることにした。
責任能力とか責任感というなら分かる。辞書にも見出しがある。だが責任+力では何とも理解のしようがない。そもそも責任とは自分が引き受けて行わなければならない任務や義務のことである。何を引き受けて貰うかは基本的には国民・有権者が決めることである。もし何を引き受けられますよと言いたいのであれば、それは能力の意味だから責任能力と書けば済む。しかし今頃それを言い出したのでは、これまでがいかにも無責任だったように聞こえるし、責任能力がなかったようにも響く。それで「能」を省いて「能ある鷹は爪を隠す」とでも洒落たつもりだろうか。
また自分が関わった事柄や行為から生じた結果に対して負う義務や償いのつもりであるなら、それにわざわざ「力」を付けたり公約に記すほどのことではない。時代の流れに逆行するような格差社会を生んだ責任を取って政権を他党に譲るか、早く国民に信を問うべきだった。それを任期が切れる今頃になって責任政党とか何とか言われても、腹が立つ以外に反応の示しようがない。ただ呆(あき)れるばかりだ。
もうひとつ明確なことがある。何人もの大臣や政府高官が不祥事を起こし、任期中に次から次へと辞めたことだ。これだけは確かだ。まさかこれらの辞任事件をもって責任を取ったとか、どうだ責任を取らせる力があるだろうと誇示しているわけでもあるまい。だが、この説明が一番真実みがある。やはり国民を侮っているということか。
かつての政権党には、もっとましな人士が大勢いたように記憶する。表面は立派でも裏ではただ腹黒いだけだとか私腹を肥やしすぎると酷評する大人も少なくなかったが子供心には、多少の学問もし、学問がない人にはそれなりの後見役が付いているように見えた。ところが最近はこれが文字通りの三流学者かそれ以下の怪しい先生ばかりになってしまった。
常に迎合を旨とする後見役では無理が生じ、政策は綻(ほころ)びる。言葉には誤使用が増える。人間に寿命があるように、政党にも寿命があるのかも知れない。法人は本来、私人のそうした限界を超越するために考え出された知恵のはずだが、どこかに計算違いでもあったのだろうか。早く総選挙が終わり、せめて変な日本語だけでも速やかに消えて欲しいと願っている。
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