◎練馬野にも空襲があった 42010/03/08

 そもそも大泉は近代になって、ある事情から生まれた新地名である。江戸時代は武蔵国豊島郡に属する土支田村上組、新座郡に属する橋戸村、小榑村、上新倉村長久保の各地域に当たるが、これらのどこを探しても大泉なる地名は見出すことはできない。明治に入っても東京と埼玉の府県境に近いこの辺りは22年の町村制施行まで埼玉県新座郡榑橋村、上新倉村、さらに東京府北豊島郡石神井村の一部であった。この時代にもまだ大泉なる地名は使われていない。大泉村の誕生は明治24年(1891)、これらの地域の全部または一部を併せて生まれた新しい村のために新しく考案されたものだった。

 当時、合併で生まれた新しい村の呼称をめぐって紛糾したことがあった。旧村が互いに譲らず困り果てていたとき、豊西尋常小学校長が白子川の源流である弁天池の湧き水に由来する泉村はどうかと提案した。これが元になって小泉(おいずみ)などの案が生まれ、誤読がされにくい大泉に落ち着いたと伝えられている。(「練馬区独立60周年記念ねりま60」より)


 そんな村のたった一つの駅が突然、大泉学園駅と改称されることになった。駅の北側に広がる原野や耕地を大々的に区画整理して学園を誘致しようという構想が持ち上がっていた。結局、学園の誘致は幻に終ったが、この辺りには珍しい整然とした区画の町並みと新しい駅名だけは残った。昭和8年春のことだった。(つづく)