◎練馬野にも空襲があった 102010/03/16

 こうして今年2010年の1月下旬にバスの中でたまたま地元のお年寄りから伺った若い頃の思い出話を整理してみると、太平洋戦争が始まってからの練馬野はもはやかつてのような鄙びた武蔵野の一部ではなくなっていたことに気づかされる。実情は全くその逆であり、英米の大国を相手に仕掛けた「聖戦」を完遂するための重要な拠点に変わっていたと見ることができる。


 さすればこの地域が相手からの攻撃や爆撃に晒される可能性は回避できない。ひとたび戦局が悪化すれば極めてその可能性が高くなる。住民たちはそんなことを遠くで感じながら夫や息子や孫を出征させ、留守を預かりながら不安な日々を送っていたことになる。日の丸直撃の話には、そんな住民たちの率直な心情が現れていた気がする。

 事実、終戦間近い昭和20年この地区は全村疎開を言い渡され、多くの住民が隣村にあたる埼玉県の片山村(現・新座市)へ移ることになったとも聞いた。ひとつ間違えば練馬野は焼夷弾による攻撃とガソリンの爆発で火の海と化し、人も家も林も家畜も全てが丸焼けの台地に変わり果てる寸前の状況にあったと云えるだろう。


 最後に気になる点を挙げて、この話を終ることにしたい。それは、こうした話が練馬区や板橋区の地元できちんと語り伝えられているだろうかという点である。東京下町のいわゆる東京大空襲については近年、発掘や保存が進んでいる。だが、現在も軍事基地や軍事施設と無縁とは云えない両区において、また埼玉県側の和光市、朝霞市、新座市において、こうした問題への取組みがどのように行われているのか気にかかる。生き証人の多くがすでに80歳に近づき、あるいは90歳を越える現状にあって一刻の猶予もならないと感じている。(了)