■リーク--新釈カタカナ語2010/02/05

 特定の関係者以外は知りうるはずのない秘密や情報を、ある意図の下に第三者に漏らすこと。英語 leak を片仮名で表記した言葉。秘密や情報の中身は国家機密、企業秘密、捜査情報、個人のプライバシーに関わるものなど様々だが、それらを第三者に漏らしたり公表されるよう仕向けることによって、みずからの利益を図る、みずからの立場を有利に導く、または相手の立場を不利にするなど常に一定の狙いや意図を持って行われるところにこの行為の特徴がある。そのため漏らし方も年々工夫され、巧妙となり、漏らしたことを追及されたり、情報源の特定ができないように努める場合も見られるが、漏らされた秘密や情報の中身を精査すればそれらを知りうる立場の人物の絞り込みは可能になるため、一般にこうした努力には余り意味がないと言える。


 なお政治資金などの問題で政治家の秘書を逮捕して取り調べる場合に、検察は逮捕権の乱用や捜査権の乱用を指摘されないよう必死で被疑者を悪玉に仕立てようとしたり、問題がいかに邪悪なものであるか・不正金額がいかに大きいかといった被疑者側に不利な情報を普及させようと、関連する捜査情報などを故意にマスメディアに漏らして世論を形成しようと画策することが頻繁に試みられるようになった。また捜査手法の一環としてこれらの情報操作を行っているのではないかと指摘される例も近年増えている。


 こうした情報は取材する側の記者にとっては飯の種でもあるため互いの利益を共有する形でそのままニュースとして報道し、結果的に検察側の意図に与(くみ)するメディアも少なくない。いついかなる情報であれ必ずウラを取って報道するのが責任あるメディアの鉄則だが、供述情報と言われるもののウラを取ることは容易でない。そのため近年は「関係者への取材で分かった」とか「といわれる」「のようだ」などの曖昧な表現を使って、とにかく検察側の意図どおりの情報流布に加担するメディアの例が後を絶たない。読者も視聴者もマスメディアに対する監視だけでなく、こうしたメディアがもつ情報流布の機能を巧みに利用しようと考える隠れた存在のあることを忘れてはならない。そうでないと税を使った卑劣な行為を放置したり見逃すことになってしまう。


※知りうるはずのないことが報道されて知れ渡ることの不思議さに気づこう。

◆自民党に春の兆し2010/02/04

 今日は立春。暦の上では今日からが春である。しかし日本列島はこのところ寒気にまとわりつかれて身動きできない。この小さな列島のどこにそんな魅力があるのか、まとわりついて離れないのは寒気だけではない。マスメディアの奢りに大企業の不遜までが加わって連日メディアを賑わせている。

 生活が苦しいとか幼児が虐待されているとか煽り立てながら、それらの改善をどう図るかよりもゴシップ記事捜しとその提供に忙しい。そして相撲取りの乱行だの愚行だの、巷の結婚詐欺だの殺人だの、やれ政界ボスの黒い資金だのと、あることないこと事実も推測もごちゃ混ぜにして騒ぎ立てている。これでは社会の公器が聞いて呆れるし、新型車の応援をしたり手抜き自動車会社の業績まで案ずるに至っては天候どころか気分までもが寒々しくなる。


 そんな中、今週は一つだけ微かにではあるが思わぬところに春の兆しを感じた。与党惚けに陥った政党のことは先日「新釈国語」で解説した。今週は、これに該当する政党の機関誌に予想外の直球記事が掲載されていた。題して「しっかりしろ自民党」、その(下)にあたる紙面に微かな兆しが現れていた。

 何しろ“国民の生の声を聞き、政策に生かす「なまごえ☆プロジェクト」”なるものを先週末に始動させたばかりの党である。その機関誌だから驚くには値しないという意見もあろう。だが、いくらテーマが「しっかりしろ自民党」とはいっても「波乱の生涯を閉じ」たとか、「もはや野党としても蘇生の見込みがない」と断定し、長年の失政のツケを払わされて汲々としている民主党を攻める資格なし、自分の夢をひとつも語らない、恋敵の悪口ばかり並べる、とまで言い切ったのだ。少しは驚いてあげてもよいだろう。もっと驚きたい向きは機関紙「自由民主」2402号(平成22.2.9号) p12 をお読みあれ。

 すでに彼の党は冬も春も夏も感じない、ただただ昨秋長月の節分のみが続いているのだという診断のあることは知っている。それでもここは前向きに受け止めてあげようではないか。それが人情というものであろう。と、ここまで書いて気になったのが、この提言に対する彼の党のコメントだ。「正に“辛口”な内容ですが、その中にも、わが党再生への期待が込められた叱咤激励になっています」とは一体どこをどう読んで書いたのか。これぞ惚けの最たるものではないか。前々回2400号(平成22.1.26号)掲載の(上)との区別が怪しくなっているのだ。


 ※今が冬の時代なら、次に訪れるのは春のはず…。

■新聞の日本語 うそぶく2010/01/31

 新聞社もテレビ局も一般企業と同様に経営危機のただ中にある。二番底などという噂はあるものの多くの企業がニクソンショックやバブルの崩壊やリーマンショックをバネに経営の改善や効率化を図りながら、何とか危機を乗り越えてきた。新聞やテレビはこれらの危機を騒ぎ立てて記事にし、ニュースとして報じることで飯の種にしてきた。だが今度ばかりは勝手が違うようだ。

 何より新聞社の危機もテレビ局の危機も構造的なものを背景にしている。いまマスメディア企業の経営を脅かしているのはインターネットや携帯電話の普及によるメディアの一大変化である。新聞の購読などという古新聞の始末や講読勧誘に悩まされる古くさい習慣とは無縁でありたいと考える若者が増えている。日清・日露の戦役で国民的なメディアとしての地位を獲得し、次には関東大震災の不幸を種に東京進出を果たすことで寡占化の道を突き進んできた大新聞がいま多くの国民からしっぺ返しを食らっている。そんな風に感じられてならない。果たして一社だけの企業努力で乗り切れるものか非常に疑問である。

 もうひとつ現代の新聞にとって不幸なのは、新聞制作を支える編集態勢の劣化である。すでに何回か指摘したように団塊世代の大量退社によって、取材し記事を書く能力が著しく低下してしまった。また、それらの記事を点検する側のデスクも年齢が下がり経験が不足し、さらに校閲まで能力不足や経験不足に見舞われている。今朝の朝刊に驚くべき日本語表現があったので紹介しよう。

 社会保険庁の一連の不祥事を見て見ぬふりし、少子化の進行を指をくわえて見つめ、派遣労働者が苦境に陥るのを予想しながら放置した厚労省。そんな組織が、長妻氏にはたるんだ職員の集合体に映る。それでも、あまりに急進的な手法には、まだ多くの職員がついていけていない。(毎日新聞・2010.1.31・朝刊 p3)

 これが昨秋、共同通信への再加盟を発表し、いわゆる発表ものは共同通信からの配信記事を使って取材費の合理化を図り、自社の記者は独自取材に振り向けることで、より掘り下げた深みのある紙面作りが期待できると表明していた新聞の現実である。この記事が一面トップを飾る“診療報酬増を「偽装」”という記事の続きであることを見れば、突然に飛び込んだ俄仕立ての記事でないことはすぐに想像がつく。しかもその末尾がこれである。文字数にはまだ1字分の余裕がある。「ついていけていない」などという耳慣れない日本語の9字を止め、せめて「ついてゆけないでいる」の10字に改めることができなかったのかと我が目を疑った。

 それだけではない。細かい点はさておくとして、この記事にはもうひとつ大変気になる日本語が使われている。記事全体が長妻大臣に不満を抱く厚生労働省の官僚の気分を代弁した形になっていて、揶揄したり非力をあげつらったりしているのだが、その中に次のような表現が使われていた。今度は一面トップの末尾に近い場所である。

 財務省が一転、0.19%増を受け入れたのは真の薬価削減幅は1.52%のまま、診療報酬改定率は0.03%増で実質ゼロ改定と言えるからだ。「脱官僚」を掲げる長妻氏も、巧妙な官の振り付けで踊った形となった。
 「こういうのが役人の知恵なんだよ」
 厚労省幹部は、そううそぶいた。(同上 p1)

 最後にある「うそぶく」とは平然として言う、の意である。大きなことを言う、の意にも使われる。厚生労働省の幹部の態度や口ぶりが実際にこの日本語の通りであったとしたら、それはその幹部が早晩引退するか転職するつもりなのだろう。そうでなければ長妻大臣を小馬鹿にし、頭から嘗めてかかっていることになる。

 記事には大臣が「厚労省の組織管理について(中略)今後人事を含め、統制を強める考えを強調した」ことも記されている。大臣のこうした姿勢に対する挑戦的な気持、そして自分たちの能力に対する絶対的な自信、このふたつが揃わなければ決して口にできない類の発言内容である。賢明な人間であれば、それでも口にはしないだろう。この新聞はそういう日本語を使って記事を書いたのである。

 折しも国家公務員の幹部人事を一元管理するための内閣人事局の設置が検討中と伝えられている。政府の構想どおりに国家公務員法改正案が国会を通れば、府省庁の次官が局長級に降格されることも可能になるという時である。この記事は、そうした政府や民主党長妻大臣の方針に対する真っ向からの挑戦状であろうか。この幹部が後で泣き言や言い訳などしなくて済むよう新聞社幹部は言葉の使い方にもっと気を配る必要がある。仮に記者にはそのように感じられたとしても、記事にするときは「そうつぶやいた」とか「そうささやいた」といった表現にするのが穏当ではないだろうか。




■与党惚け--新釈国語2010/01/30

 政党や政治家が長期にわたり政権の座に就いていたため、選挙で大敗北を喫して野党の座に転落しても相変わらず与党風を吹かすなど政権与党時代の発想や行動様式が抜けきれないことをいう。具体的には次のような事例が惚けの進行を象徴する症例として指摘できる。

1.国会議事堂内における政党控室などの場所や広さに固執する。
2.霞ヶ関の官僚や報道陣に対し従来どおり横柄な口を利く。
3.業界団体に対し従来どおりの関係を迫ったり国政選挙での協力を強いる。
4.陳情に現れない自治体の首長や地方議員に嫌みを言ったり怒鳴りつける。
5.存在意義を失った派閥の長に固執し、派閥の長として親分風を吹かせる。
6.党運営を従来どおりの年功序列で進めようと画策する。
7.党の財政事情を無視して高級料亭での会合を重ねる。

 なお以下の事柄はいずれも与党惚けとは無縁の症状である。これらのほとんどは所属の議員に政治家としての資質または能力が不足して起こる問題ではないだろうか。何もかもひっくるめて惚けのせいにするのは感心できない。人間の老化と同じで、党そのものの寿命が尽きつつあることの証拠と言えるだろう。

1.野党転落の原因を探ろうとしない。
2.どうすれば党の再生が図れるか考えようとしない。
3.国会の代表質問で他の野党に負けない質問をすることがない。


◆足利事件と飯塚事件の差2010/01/22

 国家による独善の最たるものは冤罪だろう。正義の名の下に警察や検察権力を行使し裁判所を利用して無実の民を苦しめ、死の恐怖に陥れ、時には本当に死に至らしめる。その一方で真犯人を見逃し、犯罪者からあかんべいされても見ぬふりをして定年を迎える。もちろん、この間ふんだんに血税を消費していることは言うまでもない。国家による独善とはいわば税金を使って人殺しさえ雇うような、想像するだに恐ろしい行為なのである。だがそれを正面から指摘する者は多くない。

 現在、宇都宮地方裁判所で再審裁判が進行中の足利事件が注目を集めている。被告の管家さんは4歳の女児を殺害した犯人として逮捕起訴され、警察官や検察官の決めつけとそれを支持した裁判官の無能さに17年もの長きにわたって苦しめられたが、幸いにも無期懲役だったため死に至るという最悪の事態だけは免れることができた。

 一方、似たような事件で同様に逮捕され、拘禁・取り調べの憂き目にあった飯塚事件の元死刑囚久間さん(故人)は終始一貫犯行を否認し続けた。2006年9月の死刑判決確定後も無罪を主張し、粘り強く再審請求を続けていた。

 ところが2008年10月28日、前月に発足したばかりの自民党麻生内閣の森英介法相の命により、判決確定から2年で早々に死刑執行されてしまった。判決の拠り所になったのは、どちらも同じ程度の水準といわれる当時のDNA鑑定である。死刑求刑を支持し平然と判決を言い渡した裁判官を含め、これらの関係者にはつくづく「人を見る目」がないのだと痛感させられる。

  ⇒http://atsso.asablo.jp/blog/2009/07/01/4404461 人を見る目
  ⇒http://atsso.asablo.jp/blog/2009/06/24/4387616 裁判員制度

 しかも久間さんの場合は証拠保全も怪しく、その口までが国家権力によって封じられた今となっては、真相は文字通り闇の中と言うしかない。これが21世紀を迎えてもなお変ることのない日本の犯罪捜査の現実である。これほど不条理なことが許されて良いものだろうか。国民の何割がこの事実を知っているだろうか。マスコミの何社がこれを新たな冤罪と疑っているだろうか。そして自分たちもまた実は加害者側であったことに気づいているだろうか。

 片や菅谷さんは権力の取り調べ術に翻弄されて自白を誘導・強制させられ、それ故に恣意的に罪一等を減じられて死刑を免れ、片や久間さんは権力による執拗な取り調べにもめげずに犯行を否認し続け、それ故に憎まれて死刑を求刑され頼みの裁判官には見放され、時の政権・法務大臣に至っては刑の執行を急ぐというまさに最悪の結果を招いてしまった。事件の現場が総理大臣の選挙区・福岡8区であったことも偶然とは言え、元死刑囚にとっては災難であったろう。

 いずれにしても二つの事件が教えるものは、この国ではたとえ一時的ではあっても権力に屈したり迎合することでしか権力の不条理な決めつけから身を守る手段がないということである。一社に一人くらい、それが無理ならせめてどこかに一社くらい、こうした不条理に気づく新聞記者かマスコミがあっても良さそうに思うのだが、やっぱり株式会社では無理だろうか。

 すでに「角を矯めて牛を殺す」における「矯める」の意味が二つの行為を指すことは説明した。これを日本の警察や検察に当てはめるならば次のようになるであろう。(1)自分たちには悪や不正を見抜く目があり、その目が曇ることも衰えることも誤ることもないと常に強い信念・自負を持つこと、(2)この信念や自負に基づいて逮捕したり取り調べたりした者は常に紛うことなき悪人であり不正の実行者であると決めつけ、万一罪の自白がなかったとしても何ら怯(ひる)むことなく起訴に持ち込み、取り調べに協力的でなかった者および自白しない者ほど重い刑が科されるよう努めること。(つづく)

◆離婚件数の謎--新聞の不親切2010/01/15


 最近はほとんど新聞の夕刊を読まない。大抵のニュースは翌日の朝刊に、ほぼそのまま同じ内容の記事が掲載される。こうした変わり映えのしない、新聞の貧しい文章を晩と朝2度も読まされる愚に気づいて夕刊を手にする習慣は失せてしまった。だが一昨日はたまたま外出し、帰りがけの車内で久しぶりに夕刊と再会した。

 その中に「特集ワイド」と銘打った、女性と思われる記者の署名記事があった。中身は近年、離婚のマイナスイメージが薄れ、お手軽離婚が増えているといった当世離婚事情を取材したもので、やや同性には厳しいと思われそうな内容であった。

 離婚の原因とされる個々の問題については改めて触れることにして、ここでは読者が果たしてこの記事に合点しただろうかと感じた部分があったので紹介してみたい。気になったのは具体的な離婚件数に触れた次の箇所である。前置きも大事なので少し長くなるが、連続する2つの段落から関連の箇所を抜き出してみる。

 厚生労働省の人口動態統計によると、08年の離婚件数は25万1136組、(中略)02年の28万9836件以降6年連続で減少傾向にある。ところが、09年は08年を約2000件上回り、7年ぶりに増加に転じると推計されている。
 特徴的なのは35~44歳のいわゆるアラフォー世代が多いことだ。同居をやめたときの年齢別離婚件数の統計で、離婚件数がほぼ同じだった99年と08年を比較すると、男性は4万7141件から5万9124件で約1万2000件増加、女性も4万2251件から5万8608件で約1万6000件増えている。(毎日新聞・2010.1.13・夕刊 p2)

 結婚というのは「戦前も戦後も一組の男女によって行われ、離婚は一組の男女が結婚関係を解消することだ」と、ごく普通に考えている読者にとって男女を分けて記載された性格の異なる数字の組合せはどう映っただろうか。記事を目にした人の多くが、これらの数字をいぶかしく思ったのではないだろうか。

 これらの数字を理解するポイントの一つは「アラフォー」という耳慣れない言葉の理解にある。この言葉を知っているかどうか、知らないまでも予測できるかどうかに依るところが大きい。しかし数字には別の意味も読みとれる。記者が指摘する離婚件数の単純な増加とは異なる様相もうかがわせる。だがこの記事に、そこまでの深みはない。

 新聞社も団塊世代の退社が相次ぎ、世代交代は確実に進んだ。記者の平均年齢は下がり、その分だけ経験も思慮も分別も下がってしまった。記者の平均年齢が下がる一方で、逆に読者の平均年齢は上がっている。この事実に気づかず、自分の書いた記事が誰に読まれるかも忘れると、勢い独り善がりな記事を書く羽目になる。それを指摘し改めるのがデスクや校閲の仕事だが、ここでも確実に経験年数の低下は進んでしまった。思慮や分別の継承が途切れると、記事の劣化を押し止めることは難しい。


 写真は冬枯れの溜め池。江戸城外濠の一部でもあった赤坂溜め池辺りには、かつてはこうした風景が広がっていたことだろう。

  冬枯や芥(あくた)しづまる川の底 移竹

◆月は痩せ、米ナイ教授は案ずる2010/01/09

 目を覚まし、南側の窓を開けると、弦月がちょうど隣家の屋根の真上にあって、その姿が天窓に映っていた。月の出は深夜の1時20分、月の南中は6時37分だった。(いずれも東京)

 大晦日から元旦にかけて満月だった月が半分に減ってしまった。この間、十日足らず。正月気分も抜け、また仕事が始まり、政界では財務大臣が替わった。霞ヶ関では年末まで得意満面だった財務官僚達の顔がにわかに曇り、口が重くなった。

 マスコミは検察が動き出したとか動いて欲しいとか、そうだとか、ようだとか、関係者の話ではとか、注目が集まっているとか、いろんな語尾を並べ、元旦から政治部も社会部も若手記者を動員して与党大物政治家の動向を追っている。売れない新聞を買わせるためとは言え、ご苦労なことである。

 海の向こうでは、かつて駐日米国大使候補の筆頭だったハーバード大学のジョセフ・ナイ教授(Joseph S. Nye Jr・元国防次官補)が今月7日付けのニューヨークタイムズ(電子版)に寄せた論文"An Alliance Larger Than One Issue"(一つの問題より同盟関係の重視を)が注目される。

 寄稿の中でナイ教授は「米国政府は手段と目的を取り違えるな。普天間基地という二義的な手段の問題で日本の鳩山政権を追いつめると、米国の面子(めんつ)は保つことができても日本人がもつ親米的な感情を悪化させ、引いては東アジアの安定という最も重要な戦略目的が脅かされることになる。短気は避け、ここは辛抱強く交渉を続ける必要がある」と説いている。日本のマスコミにとっては、思わぬところからのカウンターパンチであろう。

  http://www.nytimes.com/2010/01/07/opinion/07nye.html ナイ教授の寄稿

◆気が重い(5)2009/12/28

 では沖縄県民の味方ですよと言わんばかりに普天間飛行場の国外移設を叫ぶ政党や政治家の主張には真実みがあるだろうか。残念ながら答えはノーだ。これが「たまの」さんの心を重くするもうひとつの原因である。
 口先だけの主張や御為倒(おためごか)しは容易だが、それは一時のリップサービスにしかならない。もし国外移設が本気なら、在日米軍の存在を法的に裏づける日米安保条約(日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約)の終了を堂々と主張し、条約の第6条に記される「日本国の安全に寄与し、並びに極東における国際の平和及び安全の維持に寄与するため、アメリカ合衆国は、その陸軍、空軍及び海軍が日本国において施設及び区域を使用することを許される。」の効力を終らせなければならない。
 いやしくも税金を費消して活動する公党には、それに足るだけの対応を要求したい。この条約がすでに不要なものであることを国民に分かりやすく説明し、その上で米国に対し第10条に基づいて「この条約を終了させる意思を通告」するのである。そうすれば日米安保条約は「そのような通告が行なわれた後一年で終了」して、沖縄県に偏在する米軍基地の現状を一挙に改善へと導くことができる。
 それが嫌なら、あるいは安保条約がまだ必要だというなら、あとは他の都道府県が沖縄基地の肩代わりをするしかない。これまでの非を詫び、「遅まきながら肩代わりさせてください」と申し出るしかない。条約の終了も言い出さなければ他県の説得にも乗り出すことなく、安易にグアム移転などと主張する政治家の論法には詐欺商法にも等しい匂いを感じると腹を立てていた。(了)
 写真は師走を迎えた沖縄の海辺。(文責・木多)

◆気が重い(4)2009/12/27

 ゴミ焼却場や屎尿処理場は都会で暮らす人々にとって無くてはならないものである。この意見に異議を唱える人は一切ゴミを出さない生活を送っている人か、隣人に迷惑を掛けない方法で堂々とゴミの始末ができる人だけだろう。だが、そんな人でも大小便の始末には困るだろう。知恵を出しても、これらの施設を都会の生活から不要にする妙案は浮かんでこない。だからゴミ焼却場や屎尿処理場は誰かが引き受け、何処かに必ず造らなければならない。
 在日米軍基地を専用施設の面積で見ると実に75%が沖縄県に集中している。沖縄県の資料ではその数38、防衛省・自衛隊の資料でも33の専用施設が沖縄県に置かれている。沖縄県の人々は太平洋戦争末期に本土決戦の盾にされて島もろとも戦火で焼かれ、その上さらに戦後は米軍統治下での暮らしを余儀なくされてきた。本土復帰が叶ったとはいえ米軍基地の島という現実は何ら変ることなく続いている。そして日米地位協定に象徴される屈辱的な取り決めの一方的な犠牲だけを強いられている。

http://www.mod.go.jp/j/defense/chouwa/US/sennyousisetuitirann.html 在日米軍施設・区域一覧(防衛省)

 これら米軍基地・専用施設の問題が単純でないのはゴミ焼却場や屎尿処理場とは違ってまずその必要性から議論しなければならないことである。大事だ必要だ不可避だと声高に叫ぶ保守党やマスコミの論調がある一方で、観念的に不要だ無用だと主張する政党もある。不思議なのは前者に与(くみ)する人々が大事だ大事だと主張しながら75%が沖縄県に集中する現実に目を向けないことである。沖縄本島の2割近くを基地が占める異常さについて、地元の人々が納得できるような懸命の努力も説明もしていないことである。
 換言するなら、基地周辺に暮らさなければならない人々を同じ人間・同胞とは見ていないのである。多くの日本人は、こうした犠牲のお陰で高度成長を謳歌できたことも世界第2位の経済大国にまでのし上がったことも知らないし、知ろうともしない。もちろんマスコミもそれを伝えようとはしない。この無念さが「たまの」さんの心を重くしていると感じた。
 写真は師走を迎える沖縄本島摩文仁丘と海。(文責・木多)

◆気が重い(3)2009/12/26

 沖縄県の面積は日本の国土全体から見れば僅か0.6%である。それでも東京都よりは少しだけ広い。但し広いといっても160もあるという小さな島の面積を寄せ集めた数字であり、最も大きな沖縄本島で比べるとその割合は0.32%弱となる。沖縄本島だけで見れば香川県の3分の2にも満たない面積である。
 この小さな沖縄本島の19%にあたる土地を米軍が基地として今なお24時間365日占有使用している。この現実を日本の人々はどこまで本気で考えているだろうか。そもそも、この事実を知っているだろうか。マスメディアはどこまでそれを伝えているだろうか。伝えようとしているだろうか。

 ⇒ http://www3.pref.okinawa.jp/site/view/contview.jsp?cateid=14&id=579&page=1 米軍提供施設・区域の概要 (沖縄県基地対策課)

 現代社会に国際空港は欠かせない。それでも成田空港反対闘争が起き、今なお完全には解決していない。成田が駄目なら他の場所に造らなければならない。空港なしでは国際交流は不可能になる。電力にも似たことが言える。日々電力の世話になりながら多くの人が原子力発電所の建設に反対している。エコだ何だと言いながら、環境負荷の大きい火力発電所の世話になっている。水力発電の発電量は安定しているが、発電量全体に占める割合は低下傾向にある。太陽光発電や風力発電の見通しも決して明るいものではない。それでも現代人は電力の使用を止めないし、止めることができない。(文責・木多)