◆足利事件と飯塚事件の差(2)2010/03/26

 栃木県足利市で20年前の1990年に幼い女児が殺害された事件の犯人として逮捕され、2000年に無期懲役が確定した管家利和さんの再審(やり直し裁判)で26日、宇都宮地方裁判所の佐藤正信裁判長は菅谷さんに対し明確に無罪とする判決を言い渡した。公判の状況から無罪判決の出ることは十分予測されていたが、無罪の根拠として捜査段階におけるDNA鑑定の証拠能力、菅谷さんの自白の任意性や信用性、あるいは録音テープが証拠採用された起訴後の検察官の取り調べについてどこまで踏み込んだ判決が下されるかに注目が集まっていた。また無期懲役確定までの関係者として唯一謝罪のなかった裁判官が公判廷で菅谷さんに対し、どのような対応を見せるかも注目されていた。


 判決の中で佐藤裁判長は捜査段階におけるDNA鑑定に証拠能力がないこと、自白は虚偽で信用性のないことを挙げ、菅谷さんが「犯人でないことは誰の目にも明らかになった」と述べた。また起訴後に行われた検察官による別事件の取り調べについて黙秘権の告知をしていないこと、弁護士にも事前に連絡をしていないことを挙げ、取り調べに違法性の認められる点も指摘した。

 従来の再審無罪判決では速やかな無罪の言い渡しこそが被告の利益であり名誉回復につながるとする検察側の主張に配慮する形で、綿密な証拠調べによる有罪確定判決の問題点の洗い出しを避ける嫌いがあった。だが今回の判決では「無罪を言い渡すには誤った証拠を取り除く必要がある」とする弁護側の主張を容れ、DNA型の再鑑定に当たった鑑定人の証人尋問、取り調べの様子を録音したテープの再生、取り調べに当たった検事の証人尋問などを行っている。今後の再審裁判のあり方を考える上でも大きな前進と云えるだろう。

 加えて、判決の言い渡し後もうひとつ特筆すべき出来事があった。佐藤裁判長が二人の陪席裁判官とともに立ち上がり、「菅谷さんの真実の声に十分に耳を傾けられず、17年半の長きにわたり自由を奪うことになりました。誠に申し訳なく思います」と謝罪したのである。これこそ菅谷さんの深く傷つけられた心を開き、悪夢のような忌まわしい獄中生活を払拭して新たな再出発の後押しをするに相応しい再審裁判官としての対応と云えよう。

 本来なら最高裁長官が全裁判官を代表して詫びるべきところである。こんなところにも人間としての値打ちが現れている。嫌なことばかり続く世の中だが、少し救われた気がする。判決後の「嬉しい限りです。予想もしていなかった」と語る菅谷さんの笑顔が何より佐藤裁判長の判断の適切さを表している。このことを真に理解できる裁判官がこの国には何人いるだろうか。誰か知っていたら答えて欲しい。(つづく)

 ⇒ http://atsso.asablo.jp/blog/2010/01/23/4833688 足利事件と飯塚事件の差

◎練馬野にも空襲があった 102010/03/16

 こうして今年2010年の1月下旬にバスの中でたまたま地元のお年寄りから伺った若い頃の思い出話を整理してみると、太平洋戦争が始まってからの練馬野はもはやかつてのような鄙びた武蔵野の一部ではなくなっていたことに気づかされる。実情は全くその逆であり、英米の大国を相手に仕掛けた「聖戦」を完遂するための重要な拠点に変わっていたと見ることができる。


 さすればこの地域が相手からの攻撃や爆撃に晒される可能性は回避できない。ひとたび戦局が悪化すれば極めてその可能性が高くなる。住民たちはそんなことを遠くで感じながら夫や息子や孫を出征させ、留守を預かりながら不安な日々を送っていたことになる。日の丸直撃の話には、そんな住民たちの率直な心情が現れていた気がする。

 事実、終戦間近い昭和20年この地区は全村疎開を言い渡され、多くの住民が隣村にあたる埼玉県の片山村(現・新座市)へ移ることになったとも聞いた。ひとつ間違えば練馬野は焼夷弾による攻撃とガソリンの爆発で火の海と化し、人も家も林も家畜も全てが丸焼けの台地に変わり果てる寸前の状況にあったと云えるだろう。


 最後に気になる点を挙げて、この話を終ることにしたい。それは、こうした話が練馬区や板橋区の地元できちんと語り伝えられているだろうかという点である。東京下町のいわゆる東京大空襲については近年、発掘や保存が進んでいる。だが、現在も軍事基地や軍事施設と無縁とは云えない両区において、また埼玉県側の和光市、朝霞市、新座市において、こうした問題への取組みがどのように行われているのか気にかかる。生き証人の多くがすでに80歳に近づき、あるいは90歳を越える現状にあって一刻の猶予もならないと感じている。(了)

◎練馬野にも空襲があった 92010/03/15

 押し黙ってしまった女性に替わり、今度は向かい側の席から70代半ば過ぎと思しき男性が話しかけてきた。先程来の会話が耳に届いていた風だった。男性も大泉の生まれだと言った。そして空襲の背景を解説してくれた。


 それによると、この辺りは最初から米軍に狙われていたのではないかということだった。かつて九州は国東半島の山の寺で聞いた、米軍の爆撃機が帰りの燃料節約のために余った爆弾を人家の少ない山中に捨てていった話とは全く趣の異なるものだった。

 男性が挙げた根拠は三つあった。うちふたつは紛れもない公知の事実である。一つはこの場所が太平洋戦争の開戦を前に移転してきた陸軍予科士官学校や陸軍被服廠など軍の枢要な施設(戦後は駐留米軍基地として接収され、返還後は多くが陸上自衛隊朝霞駐屯地となる)に近かったこと、もうひとつは光が丘に戦時中の昭和18年(1943)突貫工事で帝都防衛のための飛行場が建設されていたことである。

 三つ目はこの男性が子どもの頃に聞いた噂である。従ってこれが残された記録などに符合するものかどうかは分からない。内容からすればそのような記録はむしろ残っていないと考える方が自然だ。しかし噂の因になる何らかの作業が当時この地区でも行われ、それを地元に残る年寄りや女性や子どもたちの一部が目撃したであろうことは容易に想像できる。

 その噂とは飛行機の燃料であるガソリンにまつわるものだった。諏訪神社に近い場所に広がる雑木林の中には大量のガソリンが隠してあると村人たちの間に噂が流れていた。だからこの辺りは米軍から狙われているのだろうと大人たちが小声で囁き合った。当時まだ国民学校に通う小学生だった男性はその光景をはっきりと覚えている。(つづく)

◎練馬野にも空襲があった 82010/03/14

「被害はそれだけだったけどね。でも日本が負ける徴(しる)しではないかって、みんなが言ったんだ…」
「そんなことがあったのですか?」


「それから、別の空襲の時にはね、おばあちゃんが一人亡くなったんだ…」
「空襲で亡くなった人がこの辺りにもいたのですね?!」

「ウチの近所だけどね。丸山ってとこの近くで、おばあちゃんが孫と留守番をしていたときに空襲さあって、背中をやられたんだ…」
そう言って、一息ついて窓の外に目をやった。亡くなったそのおばあちゃんの顔が急に浮かんできたのかも知れない。

「おばあちゃんが、とっさに孫を抱えて地面にうずくまったんだって…。だから孫だけは無傷で助かったのよ。きっとおばあちゃんは身代わりになったんだって、みんなして言って泣いたね…」

 それっきり女性は押し黙ってしまった。封印されていた記憶が蘇り、辛くなったのだろう。目頭を押さえていた。(つづく)

◎練馬野にも空襲があった 72010/03/11

 次に質問したのは空襲のことだった。戦局が険しさを増す昭和19年秋以降、東京の上空にもアメリカ軍の飛行機が飛来するようになっていた。20年に入ると3月10日未明には最初の大空襲があり、東京の下町は火の海と化した。大規模な空襲はその後も4月13日、4月15日、5月25日と続いた。練馬野の空はどうだったのか。


「この辺りにもアメリカ軍の飛行機は飛んできましたか?」
「来たよ…、怖かった。電灯を消して、みんなで震えていた…」

「爆弾は落とされなかったですか?」
「落ちたよ。駅からはちょっと離れてるけど、小泉橋の近くに諏訪神社ってあるでしょう? あそこにね、落ちたんだよ…」
そう言って、諏訪神社が分かるかと尋ねた。

「あの、新座の平林寺の方に行くちょっと広いバス道路の脇にあるお宮さんですか? 」
 女性は小さく肯いた。

「お社を見たことはありませんが、あそこに落ちたんですか?」
「それがね、爆弾さ社務所の屋根を突き抜けて、ちょうどそこに納めてあった日の丸の旗に中ったの」

「…?!」
「日の丸の真ん中さぶち抜いて、大きな穴をこさえたの。みんなして見に行ったから、よく覚えているんだけど…」

 女性の話はまだ続いた。(つづく)

◎練馬野にも空襲があった 62010/03/10

「では千人針もされたのですね?」
「戦地で弾に中らないようにってね…」

 女性の顔が一瞬曇り、悲しそうに窓の外を見つめた。身内か大切な人を戦争で亡くしたのかも知れない。

「そう言えば、よく ▽△伍長の墓 などと誌されたお墓を目にしますね…」
「うん、大勢亡くなったからね。この辺りでも…」


 女性の説明によると兵隊にとられたのは長兄だった。親類縁者からも前途を嘱望された屈強な青年だったが、千人針の願いは届かなかった。長兄が生きて大泉の地を踏むことはなかった。まだ若かった両親の嘆きは、いま思い出しても胸が塞がるという。(つづく)

◎練馬野にも空襲があった 52010/03/09

 その頃、中国大陸では関東軍による東北部への侵攻作戦が慌ただしく進められていた。昭和6年9月には柳条湖事件を自演して満州事変の火ぶたを切り、翌7年には各国の意向を無視して満州国を樹立し、長い日中戦争の泥沼へと突入していった。昭和8年は満州事変に関するリットン調査団の報告書が国際連盟総会で可決され、日本政府が連盟からの脱退を余儀なくされた年でもある。

 だが練馬野も大泉も学園都市の建設を除いては昔と何ら変わることのない平穏な日々が続いていた。時折通る電車の音以外は馬のいななく声か風の音が響くばかりだった。住民には軍部の意図や政府の方針など知る由もなく、不満といえば板橋区への編入が決まって村役場が廃され何かと不便を感じることくらいであった。


 そんな練馬野ではあったが戦線の拡大に伴って、兵員需要を賄うための徴収の余波が次第に押し寄せるようになった。特に米英開戦が避けられない状況になると、働き盛りの若者がいる家々には次々に召集令状の赤紙が届けられた。危機感を募らせた女性たちの間に、誰言うとなく千人針をしようという話が持ち上がったのもこの頃である。

 千人針とは一枚の布に千人の女性が赤糸で一針ずつ刺し、全部で千個の縫い玉をつくって出征兵士に贈る布きれの意である。戦場に赴けない女性たちが編み出した切ない祈りのような運動でもある。その起源は半世紀前の日清・日露の戦役まで遡る。家族や親戚から贈られた千人針の腹巻きをいつもしていた出征兵士が戦場で危ない目に遭いながらも無事に帰還できたという言い伝えに村の女性たちは願いを託した。(つづく)

 ⇒ http://www.pref.shiga.jp/heiwa/popup/aha_22.html 千人針(滋賀県)

◎練馬野にも空襲があった 42010/03/08

 そもそも大泉は近代になって、ある事情から生まれた新地名である。江戸時代は武蔵国豊島郡に属する土支田村上組、新座郡に属する橋戸村、小榑村、上新倉村長久保の各地域に当たるが、これらのどこを探しても大泉なる地名は見出すことはできない。明治に入っても東京と埼玉の府県境に近いこの辺りは22年の町村制施行まで埼玉県新座郡榑橋村、上新倉村、さらに東京府北豊島郡石神井村の一部であった。この時代にもまだ大泉なる地名は使われていない。大泉村の誕生は明治24年(1891)、これらの地域の全部または一部を併せて生まれた新しい村のために新しく考案されたものだった。

 当時、合併で生まれた新しい村の呼称をめぐって紛糾したことがあった。旧村が互いに譲らず困り果てていたとき、豊西尋常小学校長が白子川の源流である弁天池の湧き水に由来する泉村はどうかと提案した。これが元になって小泉(おいずみ)などの案が生まれ、誤読がされにくい大泉に落ち着いたと伝えられている。(「練馬区独立60周年記念ねりま60」より)


 そんな村のたった一つの駅が突然、大泉学園駅と改称されることになった。駅の北側に広がる原野や耕地を大々的に区画整理して学園を誘致しようという構想が持ち上がっていた。結局、学園の誘致は幻に終ったが、この辺りには珍しい整然とした区画の町並みと新しい駅名だけは残った。昭和8年春のことだった。(つづく)

◎練馬野にも空襲があった 32010/03/07



 突然の変化に驚きながら、何かあるなと感じた。

「出征兵士の見送りには行かれましたか?」
「行ったよ…」
「どこの駅で見送ったのですか?」
「大泉学園さ…」

 明治の末年に設立された武蔵野鉄道が池袋~飯能間で営業運転を始めたのは大正4年(1915)の4月である。初めは汽車を走らせた。所沢までの電化が完成したのは大正11年、保谷までの複線化は昭和4年(1929)に完了した。大泉村に駅ができたのは大正13年11月のことである。駅名は東大泉と云った。

 これが現在の大泉学園駅に改称されたのは昭和8年3月のことである。当時の大泉村は昭和7年10月に誕生した東京市板橋区に属していた。市内35区中最大の面積を誇る板橋区の中にあって最も西寄りに位置し、人家まばらな文字通りの片田舎だった。昭和5年の国勢調査によると、1平方キロメートル当たりの人口密度はわずか423人である。板橋町8,505人、練馬町1,733人、上練馬村588人、中新井村2,026人、石神井村703人などと比べても、その寒村ぶりが際だっていた。(つづく)

◎練馬野にも空襲があった 22010/03/06

 その女性とは都内を走るバスの中で偶然、隣り合わせた。腰の曲がり具合から想像して地元の農家の主婦ではないかと想像する。最初に話しかけたのは筆者の方である。道路の脇に電車の高架が立っていて、そこを黄色に塗られた電車が通り過ぎるのを目にした。これがきっかけとなって話が始まった。

「すみません、あの電車は昔なんて呼ばれていましたっけ?」
「うーん、確か武蔵野鉄道だったかな。もう忘れちゃったね…」

この時、近くから親切な若者が補ってくれた。

「今の西武鉄道は、武蔵野鉄道が合併してできた会社ですよ。お婆さんの言うとおりです」


 女性の記憶力が確かなことを知って今度は次の質問をしてみた。

「お婆さんはこの辺りのお生まれですか?」
「ええ、25歳でお嫁に行くまで大泉にいました」

「今おいくつですか?」
「84歳。今年は85歳になります…」
「ということは、終戦の時は20歳ですね。きっと、もてたでしょうね?」

 年を取って皺は増えていたが端正な顔つきの女性だった。ちょっと照れ笑いを見せた。そこで、思い切って聞いてみた。

「青年会では竹槍訓練をなさいましたか?」
「あんなもん、なんにもならないわ」と、女性は静かだが吐き捨てるような強い口調で筆者の顔を見て言った。(つづく)