◎アジサイ回顧(3)--夏便り ― 2009/06/21
下野(しもつけ)や籬(まがき)にまじる紫陽花の四葩(よひら)に見れば八重にこそ咲け 藤原光俊
注意していただきたいのは、ふたつの歌に詠み込まれている「八重」の意味です。崇徳院の場合も光俊の場合も、現代の人々が考えるような意味での「八重咲き」ではありません。当時としてはごく普通だった四葩のアジサイを詠っているのです。今風に言えばヤマアジサイかサワアジサイの歌です。それが月明かりのせいで八重に咲いているように見える(崇徳院)とか、四葩に見えるけれども八重に咲いて欲しいものだ(光俊)と詠んでいるのです。諸兄の場合も、「いずれの日かアジサイにも八重に咲く日が来るように」という意味なのです。
今年も日本列島の各地で、色も咲き方も様々なアジサイの花が私たちを楽しませてくれました。これほどまでに普及し愛される草花の背景には、万葉人の時代から連綿と続く美しいものに対する憧れと豪華な八重咲きへの強い期待があるのです。何よりもそれを教えてくれるのが、これらの歌ではないでしょうか。
アジサイの季節は峠を越えました。そのため色はどうしても紫が勝ります。初々しい清純な薄い青や水色の花を好まれる方は今月初めに時計を戻して、その頃の記事をご覧ください。さあ残るはいよいよ「あぢさゐ」の呼称だけとなりました。掲載は28日の予定です。
注意していただきたいのは、ふたつの歌に詠み込まれている「八重」の意味です。崇徳院の場合も光俊の場合も、現代の人々が考えるような意味での「八重咲き」ではありません。当時としてはごく普通だった四葩のアジサイを詠っているのです。今風に言えばヤマアジサイかサワアジサイの歌です。それが月明かりのせいで八重に咲いているように見える(崇徳院)とか、四葩に見えるけれども八重に咲いて欲しいものだ(光俊)と詠んでいるのです。諸兄の場合も、「いずれの日かアジサイにも八重に咲く日が来るように」という意味なのです。
今年も日本列島の各地で、色も咲き方も様々なアジサイの花が私たちを楽しませてくれました。これほどまでに普及し愛される草花の背景には、万葉人の時代から連綿と続く美しいものに対する憧れと豪華な八重咲きへの強い期待があるのです。何よりもそれを教えてくれるのが、これらの歌ではないでしょうか。
アジサイの季節は峠を越えました。そのため色はどうしても紫が勝ります。初々しい清純な薄い青や水色の花を好まれる方は今月初めに時計を戻して、その頃の記事をご覧ください。さあ残るはいよいよ「あぢさゐ」の呼称だけとなりました。掲載は28日の予定です。
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