シロツメクサ(五月の風16)2009/05/18

四つ葉探しに時の経つのも忘れて
 まだ高度成長などという言葉を知らなかった頃、世の中にはそこら中に田んぼや畑がありました。小川が流れ、小さな橋が架かっていました。そのどれもが子どもの遊び場でした。シロツメクサはクローバーとも呼ばれます。畑や田んぼの間を通る作業用の小径に群がって生えていました。あまり人が通らない道というか、時々人が通って踏んでくれるような場所に群生していました。
 初夏の頃、学校帰りの楽しみはそうした場所にしゃがみ込んで四つ葉のクローバーを見つけることでした。誰が教えてくれたのか今となっては顔も名前も思い出すことはできませんが、多分2歳か3歳年長のお姉さんだったろうと思います。「見つけるといいことがあるのよ」と聞き、花をたくさん摘んで髪飾りや首輪にする友達が多い中で夢中になって四つ葉探しに時間を費やしたのです。

レッテル貼りの悲しさ2009/05/18

 不定期連載「まやかし」の4回目はマスメディアにおけるレッテル貼りの問題です。レッテルは、最近はオランダ語の letter(綴り、文字)に由来する言葉だという説がもっぱらのようですが、かつては金澤庄三郎のように英語の label(ラベル、レーベル)が訛って出来たものではないかと考える研究者もいました。言葉の響き(音)よりも、その意味や使われ方を優先して考えた結果でしょうか。明治・大正期における使われ方は今日のラベルやレーベルに近いものだったようです。もっぱら商品などに付けられる名札を指す言葉でした。すなわちレッテルとは自分または自社が付けるものであって、決して他人によって付けられるものではなかったのです。
 それが、いつの頃からか今日のような「他人がその主観に基づいて一方的に付ける評価や分類や格付け」の意味に変わってしまいました。何がきっかけでそうなったのか大変気になるところです。そしてもうひとつ注意しなければならないのは、日本のマスメディアが今日的な意味でのレッテルやレッテル貼りが教育上も社会通念上も決して望ましいことではないと主張する一方で、ことあるごとに先頭に立ってみずからがレッテル貼りに手を染めていることです。その実態は性癖とでも呼んだ方がよいのかとさえ思われるほどです。
 レッテル貼りに等しい行為やレッテル貼りを疑われる行為が学校や職場などで発覚すると新聞記者や放送記者やニュースキャスターや雑誌記者やデスクは紙面や番組を使って報道し厳しく非難します。ところが汚染米や食肉偽装など社会的な関心を呼びそうな問題が起きると今度は自分たちで、そうした疑いを掛けられた企業や経営者に対し「悪徳企業」だの「悪徳社長」だのと頭ごなしにレッテルを貼って平然と報道します。政治面における与党内の主流派・反主流派・非主流といったレッテル貼り、野党内における親小沢だの非小沢だのというレッテル貼りもこれとよく似ています。米国前政権並みの二者択一的知性と商魂が見え隠れするような報道ぶりが繰り返されています。地道な取材よりセンセーショナルな記事、大げさな表現、派手な見出し、娯楽番組と間違いそうなニュースショウなど、内容にそぐわない報道ぶりが目につきます。露骨な売らん哉の姿勢を「正義の味方」の衣に隠してまくしたてているように思われてなりません。
 もしこれが視聴者や読者に分かりやすくという理由で行われているのだとしたら、これほど国民を愚弄した話もないでしょう。全く迷惑千万なことです。こうした見出しや記事に踊らされて視聴者や読者が判断を誤ったり、相手を傷つけたりすることがどんなに人間の尊厳を傷つけ、嫌な思いをし、悔しい思いをさせているか彼らは考えたことがあるでしょうか。自分たちにとって痛くも痒くもなければ、それで新聞が売れ、雑誌が売れ、視聴率さえ上がればそれで満足なのでしょうか。単に売れればいいものを、視聴率さえ上がればいいものを、あたかも正義の味方ででもあるかのように御為倒(おためごか)しをしているだけではないでしょうか。
 国民も、もうそろそろマスメディアが商売道具のひとつであることに気づく必要があります。今の私たちに一番欠けているのが、自分の頭でじっくり考えるという習慣だと強く感じます。裁判員制度を忌避する人が多いと聞きますが、これもその根っこは同じことのように思われてなりません。便利になりすぎたお陰で、判断の基準までもメディアに下駄を預けてしまったのでしょうか。他人(ひと)の痛みの分からない人が増えてしまったのだとしたら困ったことです。よく知られた「情けは他人の為ならず」を持ち出すまでもなく、社会というものがお互いの持ちつ持たれつの関係の上に築かれていることを思えば決して一方的に非難できるような、そんな酷い事例はそう多くないことに気づくはずです。同じ日本列島に暮らす同じ仲間を信じないで、どうして新聞やテレビや雑誌といった大きなメディアばかりを信じてしまうのでしょうか。