☆読めますか? この漢字2010/02/13

☆ 細やか
1.彼女は立場の弱い人にも細やかな気配りのできる女性だ。
2.彼女は後輩のために細やかだが気の利いた品を用意した。
3.細やかは姿・形の形容だが時に声が小さく低いことにも使われる。

【解説】
1.こまやか:心配りができているさま。
2.ささやか:控えめなさま。大げさでないさま。
3.ほそやか:ほっそりしているさま。文語的だが今も使われる。

【口上】
 http://atsso.asablo.jp/blog/2010/02/12/4876518 読めますか? この言葉

☆読めますか? この言葉2010/02/12

口 上

日本語力が売り物のある大学で新入生に漢字や熟語の読み方を尋ねてみた。入学してきた学生の漢字能力をまず知ることから始めたわけだ。そこで気づいたのは、学生たちが正しく読める漢字と日常生活やビジネスで使われる漢字や熟語との間に差のあることだった。学生たちが読み書きできる言葉の大半は実社会から切り離された、受験という特殊な過程で試される範囲のものだった。そこを一歩でも外れると途端に正答率が下がってしまうことを知った。「一期一会」や「風情を楽しむ」ならどの学生も正しく読めるが、「荼毘に付す」や「進捗状況を尋ねる」となると急に正解者が減ってしまうことに気づいた。

一口に漢字能力といってもその中身は一様ではない。正しく読むことより正しい筆画できちんとした文字を書くことに力を入れた時代もある。難解な語句の混じる長めの文章を読ませ、大意や要旨を把握させることに重きを置く受験指導のような方法もある。だが現代のように日常的にパソコンを使い、文章もパソコンを使って書くことが当たり前の時代になると、とにかく日本語は耳で聞いて理解できることが基本となる。耳で聞いた音をそのままパソコンに伝え(入力し)、変換候補の中から文字の言葉として妥当なものを選び出している。この作業が適切に終了して初めて漢字と仮名の交じった普通の文章が出来上がる。もしこの全てをパソコンに委せてしまったら、まっとうな日本語の文章にはならない。

実は日本人は、これと同じことを毎日頭の中で繰り返している。そして相手の話すことを理解し、スピーカーから流れてくる音の言葉を手掛かりに風景や意味を思い浮かべている。この力を付ける基本は聴く力にある。集中力といってもよい。意思疎通にはまずこの力を付けることが欠かせない。が、それはこのコラムの目的ではない。聴く力を付けるのは幼児のうちほどやさしいが、そのためには幼児期の家庭環境から整備しなければならない。聴く力の話は別の機会に譲ることにして、ここでは聴く力の後に試される頭の中の辞書を豊かにする方法について考える。

頭の中の辞書が豊かとは、音の言葉を聞いてその音が表す文字の言葉をすぐに辞書から引き出すことができ、その意味を的確に理解できる力のあることをいう。辞書の中に言葉を音で表した部分、つまり見出しがあって、次にそれを文字で表したものがあって、さらに言葉の意味が記録されていることが最低限必要である。ついでに言葉の使い方を示した部分、つまり用例と呼ばれるものがたくさんあるほど言葉の使用能力・日本語力は高いことになる。これが頭の中につくる豊かな辞書の理想である。

頭の中にこうした辞書を築くコツは、実際の辞書を片手に文学作品などを努めてたくさん読むことに尽きる。その積み重ねが頭の辞書を豊かにし日本語力を向上させるのだが、このコラムなどで毎日練習を続けることもあながち無駄では無かろう。よく目に付く漢字、使用頻度の高い熟語を選んで、2つのタイトルでお届けする。

 ☆読めますか? この漢字
 ☆熟語を読む ▽△

どこまで続くものかとんと分からぬが、読めない漢字や使い分けが必要な漢字の存在に気づくために、正しく使える漢字や熟語を増やす精進のひとつとして、お使いいただければ幸いである。

  2010年2月12日        木多・まさと

http://atsso.asablo.jp/blog/2009/11/02/4669831 旗幟鮮明(1)

○満月の無い月2010/02/09

 満月の月は moon の意、無い月とはその満月をただの一度も見ることのない month のこと。今月がちょうどのその month にあたる。先月は元旦と30日が満月だった。今月は一年で最も日数が短い month である。28日しかない。次の満月は2月を通り越して3月の1日まで行ってしまう。お陰で3月はまた30日に、もう一度満月を拝める。などと、moon の満ち欠けを気にする生活も悪くないだろう。

 今朝の月の出は3時12分(東京地方)だった。写真は日の出(6時35分)の少し前に撮影したものである。正午の月齢は24.8、5日後の今月14日(日)に新月を迎える。


 昨年末から時折、月齢や太陰暦のことを書いているが、そのうち日本にも日本語に横文字を交えて今回の冒頭のような妙な説明をする時代がやって来るのだろうか。たまに国会の与野党論戦などをラジオで聴くと、耳慣れないカタカナ言葉が飛び交っている。新聞や放送でも、素人には意味の分からない各種のカタカナ言葉が頻繁に使われ出している。後期高齢者というと年寄りいじめの象徴のように受け取られるが、シルバーとかケアマネージャーとかジェイエーを年寄り泣かせの言葉だと非難する人はいない。それでいて日本語を大事にしろとか、漢字が読めないとか書けないとか活字離れが進んだとか、事あるごとに騒いでいる。不思議な国だ。

◎言葉の詮索 なまめかしい2010/02/07

 今この言葉は異性に対し平常心を保てなくさせるような、女性特有の格別な魅力を表すときに用いられる。漢字で「艶めかしい」と記すのも、もっぱらこの意を伝えようとしてのことであろう。そのため「あでやかで色っぽい」などと説明する辞書も少なくない。しかし元は「なまめく」から出た言葉であり、「なま」とは本来そうした色っぽさや色気とは無縁の言葉である。

 名詞「なま」は生とも記されるように生きていることを示している。しかしそこから転じて例えば火で炙ってないこと、煮てないことを表すようになったとき「なま」の使われ方に変化が生じた。「なま」から受ける印象が多様になり、未熟とか不完全とか、さらには中途半端などの意を感じさせる言葉へと変わっていった。

 一方「めく」は今でこそ名詞や副詞や形容詞などに付いて「…のような状態になること」を表す接尾語として知られるが、元は四段活用の動詞であった。春めく、時めく、古めく、ざわめく、ひしめく、ひらめく、ほのめく、よろめくなど多くの言葉にその形骸を見ることができる。この「めく」を意図的につくりだそうとするのが「めかす」である。うごめかす、きらめかす、時めかす、ほのめかすなど現代でも「それらしく見せる」や「そのように振る舞う」の意を含んだ言葉として使われている。だが、この動詞の特徴を最も端的に表すのは「粧す」である。一般には化粧を念入りにすることであったり着飾ったりすることの意に用いられるが、そうしたことの背景にはそのように見せたい、思われたいという強い意図があって実行される点に注意したい。

 では「なまめかしい」に色っぽさや艶など女性的な格別の魅力を感じるようになったきっかけは何だったのだろうか。ひとつは技巧が尊ばれた平安貴族文化の裏返し・反動によるものではないかと推測される。万葉の時代に見られたようなおおらかな男女関係からの変化とそれにともなう技巧および過ぎたる技巧への反動である。写真の大根はそれを説明するために掲載した。


 上掲は本来の「なまめく」を鄙びたものとして嫌い、これを避けるために化粧を施したり衣装を工夫して「粧す」ことに努めたものを表している。といっても実際には撮影する大根ができるだけ白くきれい見えるように、ヒゲ根や横筋の入っていない場所を選んだだけのことである。が、ヒゲ根や土色の残る横筋などがフレームの外に押し出されることで、写真には今風の言葉を使うなら「美白」とでもいった一種の洗練された美の追求の結果だけが写し出されている。これに対し次に掲げるのは畑から掘り出した大根を根菜としての特徴や根の曲がり具合などがそのまま見えるように撮影したものである。


 どちらの大根に、より多くの「なまめかしさ」を感じるだろうか。現代では人により、それぞれに育った環境や風土や文化の差があるので美の感じ方は一様ではない気がする。だが紫式部など平安貴族が用いた「なまめかし」は派手やかさや煌びやかさなど過度の技巧による装飾を排する一方で、決して万葉の素朴な生(き)のままの美を再評価したわけではなく、技巧を感じさせない程度にさりげなく演出されたり追求されたりした美のことを指していたと考えられる。

■リーク--新釈カタカナ語2010/02/05

 特定の関係者以外は知りうるはずのない秘密や情報を、ある意図の下に第三者に漏らすこと。英語 leak を片仮名で表記した言葉。秘密や情報の中身は国家機密、企業秘密、捜査情報、個人のプライバシーに関わるものなど様々だが、それらを第三者に漏らしたり公表されるよう仕向けることによって、みずからの利益を図る、みずからの立場を有利に導く、または相手の立場を不利にするなど常に一定の狙いや意図を持って行われるところにこの行為の特徴がある。そのため漏らし方も年々工夫され、巧妙となり、漏らしたことを追及されたり、情報源の特定ができないように努める場合も見られるが、漏らされた秘密や情報の中身を精査すればそれらを知りうる立場の人物の絞り込みは可能になるため、一般にこうした努力には余り意味がないと言える。


 なお政治資金などの問題で政治家の秘書を逮捕して取り調べる場合に、検察は逮捕権の乱用や捜査権の乱用を指摘されないよう必死で被疑者を悪玉に仕立てようとしたり、問題がいかに邪悪なものであるか・不正金額がいかに大きいかといった被疑者側に不利な情報を普及させようと、関連する捜査情報などを故意にマスメディアに漏らして世論を形成しようと画策することが頻繁に試みられるようになった。また捜査手法の一環としてこれらの情報操作を行っているのではないかと指摘される例も近年増えている。


 こうした情報は取材する側の記者にとっては飯の種でもあるため互いの利益を共有する形でそのままニュースとして報道し、結果的に検察側の意図に与(くみ)するメディアも少なくない。いついかなる情報であれ必ずウラを取って報道するのが責任あるメディアの鉄則だが、供述情報と言われるもののウラを取ることは容易でない。そのため近年は「関係者への取材で分かった」とか「といわれる」「のようだ」などの曖昧な表現を使って、とにかく検察側の意図どおりの情報流布に加担するメディアの例が後を絶たない。読者も視聴者もマスメディアに対する監視だけでなく、こうしたメディアがもつ情報流布の機能を巧みに利用しようと考える隠れた存在のあることを忘れてはならない。そうでないと税を使った卑劣な行為を放置したり見逃すことになってしまう。


※知りうるはずのないことが報道されて知れ渡ることの不思議さに気づこう。

◎季節の言葉 節分2010/02/03

 今日は節分。節分とは文字通り季節を分けるの意である。つまり本来なら春夏秋冬の年4回、季節の分かれ目・境目があるはずのものである。実際のところ例えば「源氏物語」を繙(ひもと)くと、かつてはそのようであったことに気づかされる。物語も終盤に近い「宿木」の巻には藤の花の宴の催される場面が描かれているが、そこに記された節分は現代における春の始まりの意ではない。春が終り夏が始まるときの節分である。

 夏にならば三条の宮塞がる方になりぬべし、と定めて四月朔日ごろ節分とかいふ事まだしき先に渡したてまつりたまふ。

 次の「東屋」の巻にも節分は登場する。薫と浮舟が宇治へ向け出立する場面に使われ、この場合は秋から冬への境目を示す節分の意となっている。

 (中略)なが月はあすこそ節分と聞きしか、といひなぐさむ。けふは十三日なりけり。

 このようにかつては季節季節の境目ごとに節分が意識され、境目を狙って横行すると信じられた悪鬼や病魔などの災厄を除(よ)けるための対策が講じられていた。これがいつの間にか、さほどの必要もないと思われたのか、時代とともに簡素化され、あるいは廃れて、残ったのが唯一立春前の今風の行事ということになる。

 そういえば時季外れの殺風景なもの(すさまじきもの)として「昼吠ゆる犬、春の網代、三四月の紅梅の衣、嬰児の亡くなりたる産屋、火おこさぬ火桶……」と並べたて、最後に「まして節分はすさまじ」と記したのは「枕草子」の作者・清少納言である。すでに一千年前の京には、そのような冷めた目で節分の行事を眺めていた女性がいたことになる。これもまた知っておくべきだろう。

◎季節の言葉 凍る・氷(2)2010/02/01

 漢字の偏である三水は池、河、波、沖、汁など水に縁のある文字の構成要素に使われている。沈、没、汚、治のように水とは一見無縁と思われる文字も字書を引けば水との関係を知ることができる。

 氷が水の凍ったものであることは多くの人が知っている。凍るという文字の偏である冫は一般に二水と呼ばれているが、「ヒョウ」という漢音をもつ漢字でもある。冫は元は「人」を縦にふたつ重ねて書き、水が凍り始めたときのさまを表したものだと言われる。つまり氷は「冫+水」と記すことで、水が凍ったさまを示している。


 日本列島の先人たちは、当時が今より寒かったせいかどうかは知らぬが、凍るとか氷というものに対して現代人より遙かに細やかな観察をしていた。その名残が「ひ」と「こほり」の使い分けである。まず「万葉集」の恋の歌から紹介しよう。冬の凍てつく夜の待ち合わせを詠ったものだが、ついに相手は姿を見せることがなかった。

 我が背子は待てど来まさず雁が音も響(とよ)みて寒しぬばたまの夜も更けにけりさ夜更くとあらしの吹けば立ち待つに我が衣手に置く霜も氷(ひ)にさえわたり降る雪も凍りわたりぬ今さらに君来まさめやさな葛後も逢はむと大船の思ひ頼めどうつつには君には逢はず夢にだに逢ふと見えこそ天の足り夜に(万葉集・3281)

 霜は「氷にさえわたり」、降る雪は「凍りわたりぬ」と使い分けている。これは長時間、戸外で立って待っていたので衣の上に霜がおり、それががちがちに氷って氷(ひ)のような固まりになったという意味である。また、その間に雪も降ってきて、その雪が厳しい寒気に触れて表面が凍り始めたと歌っているのである。ひたすら待ち続ける心情、その哀れさがひしひしと伝わってきて切ない。


 また「源氏物語・蜻蛉」にも、この「ひ」が登場し、薫と小宰相の君の夫婦仲を示す小道具として使われている。「氷をものの蓋に置きて割る」「手に氷を持ちながらかく争ふ」「氷召して人びとに割らせたまふ」と「ひ」を割って遊ぶ様子が描かれている。この場合の「ひ」は冬のうちに氷を池などから切り出して氷室(ひむろ)に入れて貯蔵し、夏の暑いときに取り出して貴族の涼みの用に供したものを指している。池の表面に厚く張った氷も貯蔵時間の経過と気温の上昇とによってやせ細り、夏には人が割って楽しむくらいに薄くなってしまったようだ。(了)

■新聞の日本語 うそぶく2010/01/31

 新聞社もテレビ局も一般企業と同様に経営危機のただ中にある。二番底などという噂はあるものの多くの企業がニクソンショックやバブルの崩壊やリーマンショックをバネに経営の改善や効率化を図りながら、何とか危機を乗り越えてきた。新聞やテレビはこれらの危機を騒ぎ立てて記事にし、ニュースとして報じることで飯の種にしてきた。だが今度ばかりは勝手が違うようだ。

 何より新聞社の危機もテレビ局の危機も構造的なものを背景にしている。いまマスメディア企業の経営を脅かしているのはインターネットや携帯電話の普及によるメディアの一大変化である。新聞の購読などという古新聞の始末や講読勧誘に悩まされる古くさい習慣とは無縁でありたいと考える若者が増えている。日清・日露の戦役で国民的なメディアとしての地位を獲得し、次には関東大震災の不幸を種に東京進出を果たすことで寡占化の道を突き進んできた大新聞がいま多くの国民からしっぺ返しを食らっている。そんな風に感じられてならない。果たして一社だけの企業努力で乗り切れるものか非常に疑問である。

 もうひとつ現代の新聞にとって不幸なのは、新聞制作を支える編集態勢の劣化である。すでに何回か指摘したように団塊世代の大量退社によって、取材し記事を書く能力が著しく低下してしまった。また、それらの記事を点検する側のデスクも年齢が下がり経験が不足し、さらに校閲まで能力不足や経験不足に見舞われている。今朝の朝刊に驚くべき日本語表現があったので紹介しよう。

 社会保険庁の一連の不祥事を見て見ぬふりし、少子化の進行を指をくわえて見つめ、派遣労働者が苦境に陥るのを予想しながら放置した厚労省。そんな組織が、長妻氏にはたるんだ職員の集合体に映る。それでも、あまりに急進的な手法には、まだ多くの職員がついていけていない。(毎日新聞・2010.1.31・朝刊 p3)

 これが昨秋、共同通信への再加盟を発表し、いわゆる発表ものは共同通信からの配信記事を使って取材費の合理化を図り、自社の記者は独自取材に振り向けることで、より掘り下げた深みのある紙面作りが期待できると表明していた新聞の現実である。この記事が一面トップを飾る“診療報酬増を「偽装」”という記事の続きであることを見れば、突然に飛び込んだ俄仕立ての記事でないことはすぐに想像がつく。しかもその末尾がこれである。文字数にはまだ1字分の余裕がある。「ついていけていない」などという耳慣れない日本語の9字を止め、せめて「ついてゆけないでいる」の10字に改めることができなかったのかと我が目を疑った。

 それだけではない。細かい点はさておくとして、この記事にはもうひとつ大変気になる日本語が使われている。記事全体が長妻大臣に不満を抱く厚生労働省の官僚の気分を代弁した形になっていて、揶揄したり非力をあげつらったりしているのだが、その中に次のような表現が使われていた。今度は一面トップの末尾に近い場所である。

 財務省が一転、0.19%増を受け入れたのは真の薬価削減幅は1.52%のまま、診療報酬改定率は0.03%増で実質ゼロ改定と言えるからだ。「脱官僚」を掲げる長妻氏も、巧妙な官の振り付けで踊った形となった。
 「こういうのが役人の知恵なんだよ」
 厚労省幹部は、そううそぶいた。(同上 p1)

 最後にある「うそぶく」とは平然として言う、の意である。大きなことを言う、の意にも使われる。厚生労働省の幹部の態度や口ぶりが実際にこの日本語の通りであったとしたら、それはその幹部が早晩引退するか転職するつもりなのだろう。そうでなければ長妻大臣を小馬鹿にし、頭から嘗めてかかっていることになる。

 記事には大臣が「厚労省の組織管理について(中略)今後人事を含め、統制を強める考えを強調した」ことも記されている。大臣のこうした姿勢に対する挑戦的な気持、そして自分たちの能力に対する絶対的な自信、このふたつが揃わなければ決して口にできない類の発言内容である。賢明な人間であれば、それでも口にはしないだろう。この新聞はそういう日本語を使って記事を書いたのである。

 折しも国家公務員の幹部人事を一元管理するための内閣人事局の設置が検討中と伝えられている。政府の構想どおりに国家公務員法改正案が国会を通れば、府省庁の次官が局長級に降格されることも可能になるという時である。この記事は、そうした政府や民主党長妻大臣の方針に対する真っ向からの挑戦状であろうか。この幹部が後で泣き言や言い訳などしなくて済むよう新聞社幹部は言葉の使い方にもっと気を配る必要がある。仮に記者にはそのように感じられたとしても、記事にするときは「そうつぶやいた」とか「そうささやいた」といった表現にするのが穏当ではないだろうか。




■初心忘るなかれ--新釈国語2010/01/31

 初心には二つの意味があります。一つは最初に抱いたこころざし、例えば人生や学問の目標の意です。初志とも呼ばれます。忘(わす)るはラ行四段活用の動詞です。現代風に言えば忘れるです。最初の目標を大切に胸の奥に留めて終生忘れることなく仕事に励みなさい、学問に勤(いそ)しみなさい、という意味です。


 もうひとつは芸の道に入った頃の謙虚で緊張した気持ちをいつまでも失うなの意です。これは室町時代前期の能役者で能作者としても知られる世阿弥が遺した「花鏡」に示されている「初心不可忘」の意に代表される言葉です。世阿弥は40歳を過ぎた頃から、それまでに悟り得た芸の知恵を伝えようと少しずつ、その極意とも言うべき心構えなどを書き継いでゆきました。

 ⇒http://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/edc9/zeami/gyouseki/kakyou02_1.html 世阿弥の業績(日本芸術文化振興協会)


 世阿弥の言葉は読み下しにすれば「初心忘るべからず」です。人口に膾炙するのもこの「忘るべからず」の方でしょうが現行一般の意味としては逆で、むしろ目標の方を指していると感じます。文字に書けばどちらも同じ「初心」ですから差が分かりません。言葉を使う人に、これが何を意味するのか究めようとする気持がなければ表面的な理解だけに終ってしまうでしょう。

 学問や芸を学び始めた頃の目標と気持、初めて仕事に就いたときの気持や目標、そうしたものをいつまでも大事にできる人生を送りたかったと、晩年になって悔やむ老人は少なくありません。若い諸君にはせめて義務教育終了までに、初心には二つの意味があることを知って欲しいと願っています。


 2010年も今日で12分の1が終ることになります。月日の経つのは誠に早いものです。このブログが始まってちょうど丸1年経ちました。初心を忘れないためにも時々は初日の記事を振り返ってみる必要があります。

 ⇒http://atsso.asablo.jp/blog/2009/01/31/4093742 語義と研究者

 人生には過去もあれば未来もあります。今さら振り返っても仕方ないと思うのは過ぎ去った昔のことであって、初心をこれと同列に扱ってはなりません。初心を抱いたときは過去であっても、初心それ自体は現在とも未来とも切り離せない終生の目標です、熱い思い・謙虚な気持のはずです。初心を思い出すことは気持の若返りにも通じます。常に心の内にあって脈々と活動を続ける原動力にして欲しいものです。

■野党惚け--新釈国語2010/01/29

 政党や政治家が長期にわたり野党の立場におかれた結果、選挙で勝利して念願の与党側に替っても野党時代の発想や行動様式が抜けきれないことをいう。与党に転じても一向に政策立案能力が発揮されなかったり、政策の実行力という点で有権者が不安を感じ始めているとき、閣僚や党幹部がみずからの立場を弁(わきま)えない無責任な発言や行動を繰り返したり、党内でそうした発言や行動が相次ぐことを表す。

 惚けは古くは「ほけ」と呼ばれ、本来は加齢にともなう心身の老化を指す言葉だったと想像される。例えば「源氏物語」には「ほけ」の様子が「昼間は一日うつらうつらして起きているか眠っているか分からない状態なのに、夜になるとすっきり目覚めて」と記されている(明石)。これに対し現在使われている「ぼけ」は、加齢により必然的に起こる「ほけ」現象の中でも特に否定的な意味合いの強いものだけを指す言葉と言えよう。行動の鈍さ、思考力の低下、昼夜の行動の逆転など忌むべき多様な問題点を含んだ表現として、それらに似た症状を呈する人物を罵倒したり、そうした症状が見られることを軽蔑的に評する場合に用いられる。

 野党惚けの背景にあるのは政治家としての資質の問題と緊張感の不足である。野党には政権運営の直接的な権限も責任もないため、与党が準備する施策や法案の全てに対し常にその非をあげつらうことで自分たちの存在意義を発揮することができた。長い間こうした状況におかれると、なんらの責任も持つことなく評論家風に政治活動を続けることが許される。勢い野党には批判能力ばかりが長けた政治家が集まりやすくなる。与党に転じたとき政治家の多くが野党時代に身に付けた一種の習い性とも言うべき無責任な行動様式からいかに素早く抜け出せるか、速やかな頭の切り替えができるか、そのことの意味と重要性を教えてくれる言葉でもある。


 写真は植物の木瓜。同じ「ぼけ」でも中身は別物、さぞかし迷惑なことであろう。但し木瓜の実は石のように固い。