◎練馬野にも空襲があった 72010/03/11

 次に質問したのは空襲のことだった。戦局が険しさを増す昭和19年秋以降、東京の上空にもアメリカ軍の飛行機が飛来するようになっていた。20年に入ると3月10日未明には最初の大空襲があり、東京の下町は火の海と化した。大規模な空襲はその後も4月13日、4月15日、5月25日と続いた。練馬野の空はどうだったのか。


「この辺りにもアメリカ軍の飛行機は飛んできましたか?」
「来たよ…、怖かった。電灯を消して、みんなで震えていた…」

「爆弾は落とされなかったですか?」
「落ちたよ。駅からはちょっと離れてるけど、小泉橋の近くに諏訪神社ってあるでしょう? あそこにね、落ちたんだよ…」
そう言って、諏訪神社が分かるかと尋ねた。

「あの、新座の平林寺の方に行くちょっと広いバス道路の脇にあるお宮さんですか? 」
 女性は小さく肯いた。

「お社を見たことはありませんが、あそこに落ちたんですか?」
「それがね、爆弾さ社務所の屋根を突き抜けて、ちょうどそこに納めてあった日の丸の旗に中ったの」

「…?!」
「日の丸の真ん中さぶち抜いて、大きな穴をこさえたの。みんなして見に行ったから、よく覚えているんだけど…」

 女性の話はまだ続いた。(つづく)

◎練馬野にも空襲があった 62010/03/10

「では千人針もされたのですね?」
「戦地で弾に中らないようにってね…」

 女性の顔が一瞬曇り、悲しそうに窓の外を見つめた。身内か大切な人を戦争で亡くしたのかも知れない。

「そう言えば、よく ▽△伍長の墓 などと誌されたお墓を目にしますね…」
「うん、大勢亡くなったからね。この辺りでも…」


 女性の説明によると兵隊にとられたのは長兄だった。親類縁者からも前途を嘱望された屈強な青年だったが、千人針の願いは届かなかった。長兄が生きて大泉の地を踏むことはなかった。まだ若かった両親の嘆きは、いま思い出しても胸が塞がるという。(つづく)

◎練馬野にも空襲があった 52010/03/09

 その頃、中国大陸では関東軍による東北部への侵攻作戦が慌ただしく進められていた。昭和6年9月には柳条湖事件を自演して満州事変の火ぶたを切り、翌7年には各国の意向を無視して満州国を樹立し、長い日中戦争の泥沼へと突入していった。昭和8年は満州事変に関するリットン調査団の報告書が国際連盟総会で可決され、日本政府が連盟からの脱退を余儀なくされた年でもある。

 だが練馬野も大泉も学園都市の建設を除いては昔と何ら変わることのない平穏な日々が続いていた。時折通る電車の音以外は馬のいななく声か風の音が響くばかりだった。住民には軍部の意図や政府の方針など知る由もなく、不満といえば板橋区への編入が決まって村役場が廃され何かと不便を感じることくらいであった。


 そんな練馬野ではあったが戦線の拡大に伴って、兵員需要を賄うための徴収の余波が次第に押し寄せるようになった。特に米英開戦が避けられない状況になると、働き盛りの若者がいる家々には次々に召集令状の赤紙が届けられた。危機感を募らせた女性たちの間に、誰言うとなく千人針をしようという話が持ち上がったのもこの頃である。

 千人針とは一枚の布に千人の女性が赤糸で一針ずつ刺し、全部で千個の縫い玉をつくって出征兵士に贈る布きれの意である。戦場に赴けない女性たちが編み出した切ない祈りのような運動でもある。その起源は半世紀前の日清・日露の戦役まで遡る。家族や親戚から贈られた千人針の腹巻きをいつもしていた出征兵士が戦場で危ない目に遭いながらも無事に帰還できたという言い伝えに村の女性たちは願いを託した。(つづく)

 ⇒ http://www.pref.shiga.jp/heiwa/popup/aha_22.html 千人針(滋賀県)

◎練馬野にも空襲があった 32010/03/07



 突然の変化に驚きながら、何かあるなと感じた。

「出征兵士の見送りには行かれましたか?」
「行ったよ…」
「どこの駅で見送ったのですか?」
「大泉学園さ…」

 明治の末年に設立された武蔵野鉄道が池袋~飯能間で営業運転を始めたのは大正4年(1915)の4月である。初めは汽車を走らせた。所沢までの電化が完成したのは大正11年、保谷までの複線化は昭和4年(1929)に完了した。大泉村に駅ができたのは大正13年11月のことである。駅名は東大泉と云った。

 これが現在の大泉学園駅に改称されたのは昭和8年3月のことである。当時の大泉村は昭和7年10月に誕生した東京市板橋区に属していた。市内35区中最大の面積を誇る板橋区の中にあって最も西寄りに位置し、人家まばらな文字通りの片田舎だった。昭和5年の国勢調査によると、1平方キロメートル当たりの人口密度はわずか423人である。板橋町8,505人、練馬町1,733人、上練馬村588人、中新井村2,026人、石神井村703人などと比べても、その寒村ぶりが際だっていた。(つづく)

◎練馬野にも空襲があった 22010/03/06

 その女性とは都内を走るバスの中で偶然、隣り合わせた。腰の曲がり具合から想像して地元の農家の主婦ではないかと想像する。最初に話しかけたのは筆者の方である。道路の脇に電車の高架が立っていて、そこを黄色に塗られた電車が通り過ぎるのを目にした。これがきっかけとなって話が始まった。

「すみません、あの電車は昔なんて呼ばれていましたっけ?」
「うーん、確か武蔵野鉄道だったかな。もう忘れちゃったね…」

この時、近くから親切な若者が補ってくれた。

「今の西武鉄道は、武蔵野鉄道が合併してできた会社ですよ。お婆さんの言うとおりです」


 女性の記憶力が確かなことを知って今度は次の質問をしてみた。

「お婆さんはこの辺りのお生まれですか?」
「ええ、25歳でお嫁に行くまで大泉にいました」

「今おいくつですか?」
「84歳。今年は85歳になります…」
「ということは、終戦の時は20歳ですね。きっと、もてたでしょうね?」

 年を取って皺は増えていたが端正な顔つきの女性だった。ちょっと照れ笑いを見せた。そこで、思い切って聞いてみた。

「青年会では竹槍訓練をなさいましたか?」
「あんなもん、なんにもならないわ」と、女性は静かだが吐き捨てるような強い口調で筆者の顔を見て言った。(つづく)

○こぶし咲く2010/03/04

 このブログもあっという間に1年以上が過ぎてしまいました。前に書いたという確かな記憶はあっても、それがいつだったかを思い出すことが段々難しくなってきました。そろそろどこかで整理をしておかないと、頭の中もブログの中も屑籠同然・反故同然の状態になりそうです。

 今日は午後になって漸く日射しを拝むことができました。また暖かさが戻ったせいか、あちこちから「こぶしの花が咲いたよ」という知らせが入りました。思い起こせば、この欄で最初に「こぶし・拳・辛夷」を書いたのは昨年の3月のことでした。ちょうど、お彼岸の頃ではなかったかと記憶しています。記憶が間違っていなければ、その次くらいに「春さらば」が掲載されたはずです。

 ブログに参加したのは国語辞典のあり方に強い疑問を抱いたことと関係があります。前々から、日本語の権威と持て囃される「広辞苑」の内容が気になっていました。改訂の方針が妙ではないかと呆れていました。世間が崇めることとの懸隔がありすぎると感じていました。都合4回にわたって掲載した「こぶし」の記事は、そうした疑問の一例に過ぎません。

 ⇒ http://atsso.asablo.jp/blog/2009/03/24/4201451 こぶし・拳・辛夷(1)
 ⇒ http://atsso.asablo.jp/blog/2009/03/25/4202634 こぶし・拳・辛夷(2)
 ⇒ http://atsso.asablo.jp/blog/2009/03/26/4204426 こぶし・拳・辛夷(3)
 ⇒ http://atsso.asablo.jp/blog/2009/10/12/4629074 こぶし・拳・辛夷(4)


 初めの頃はどんなテーマも全て文字のみで綴っていました。春に書いた3回分にも写真は載せていません。そこで今日は撮影して来たばかりの咲きたての「こぶしの花」を追加で掲載します。撮影は3個所で行いました。それぞれ別の樹木の写真です。蕾が大きく開いていたのはそのうちの若木2本でした。大木の開花にはあと一日か二日、暖かい日射しが必要なようです。

  黄昏の風吹くばかり花辛夷 松沢 昭

◆豊後梅 22010/03/03

 ところで既に記したように豊後が大分県中部および南部を指す旧称であることは疑いない。だが、それだけで豊後梅の「豊後」を豊後の国の「豊後」と見なすのは危険である。その程度の論拠で納得していると、いずれ浄瑠璃の豊後節までが大分県の民謡と思われてしまうだろう。県のホームページで「豊後梅は、その名の示すように豊後(大分県)に発祥し、古くから豊後の名産として知られていました」と記すからには、名称以外の何か有力な根拠が必要である。

 しかし同県の県花・県木の紹介ページには、この点に関する明確な説明がない。「豊後梅の歴史」と題して江戸時代も17世紀後半の延宝9年(1681)に刊行された水野元勝の「花壇綱目」を紹介しているが、この刊本は今で云うところの園芸手引きであって豊後梅の由来を記すものではない。土質や施肥などの養生法は記しても、豊後国との関係には触れていない。この書の記載から推定できるのは、この品種が当時すでに園芸種として好事家などの間に一定の知名度をもっていたと想像されることくらいである。

 ホームページにはもうひとつ、杵築(きつき)藩主の松平公から「毎年将軍家に大梅の砂糖漬が献上され」たとの記述も見える。だが、この大梅を豊後梅と断定するためにはやはりそれなりの証拠や傍証が必要である。そうしたものが全て揃って献上の起源が明らかになり、それが江戸の初期17世紀初めにまで遡ることができて、しかも将軍家がこれを杵築の梅ではなく豊後の梅と呼んでいたことが文献や史料から説明できれば、当時まだ無名に近かったこの品種が江戸を中心に豊後梅(ぶんごのうめ)と呼ばれるようになったというようなことに、あるいはなるのかも知れない。

 そうなって初めて、上記の「花壇綱目」も大分県の県花・県木を支える史料のひとつに仲間入りすることができる。税金を使った仕事に史実に基づかない希望的記述や曖昧さは許されない。ただでさえ不確かなインターネット情報に新たなノイズを撒き散らすのは止めるべきだ。不明確な部分は「不確かではあるが」と率直に記す勇気が必要である。県の公式ページが今のような虚仮威(こけおど)しに近い文献史料の利用を行っていては県民の文化水準までが疑われかねない。(了)


◆豊後梅2010/02/26

 庭の豊後梅が開花した。近所ではとっくに咲いているが、この木に限っては雨の当たらない条件の悪い場所にあるため例年1週間ほど遅れて咲く。それでも昨年の開花が2月27日だったことを思えば2日早い。今日はこの豊後梅について調べてみた。


 豊後とは言うまでもなく現在の大分県中部および南部の地に相当する旧称である。因みに大分県北部地方は福岡県東部地域と合して豊前(ぶぜん)と呼ばれた。豊後梅は昨日も紹介したように雑種性が強く、梅の仲間ではあるが幹肌といい実の形や色といい種の形といい、杏(あんず)に近い特徴を有している。開花の時期も野梅系や紅梅系より遅く、杏よりは早い。


 面白いのは杏の八重が実を付けないと云われるのに対し、豊後梅の多くが八重の花を咲かせることである。逆に一重の品種であるウスイロチリメンの場合は花の付きが余りよくなく、万事が杏とは反対になっている。

 豊後梅は基本的に花は薄紅色が多い。だがハクボタンと呼ばれる品種だけはその名の通り白色に近い色を呈する。しかしこれも蕾の時は薄紅色をしていて開花後は、透けて見えそうな薄い花びらを光が通るために紅色が遠退いて見えるまでのことである。決して真っ白というわけではない。むしろ紅色が強いヒノハカマと呼ばれるものの方が、豊後梅としては例外に近いだろう。専門家はこれを杏性に分類し、豊後性とは分けている。(つづく)

 ⇒ http://atsso.asablo.jp/blog/2010/02/24/4903419 紅梅と白梅 2

◆紅梅と白梅 22010/02/24

 東京の西部には吉野梅郷で知られる青梅市がある。青梅市観光協会は紅白合わせて2万5千本もの梅が花をつける梅まつりの案内にはことのほか力を入れていて、関連のホームページも充実している。中でも便利なのが「ウメ図鑑」のページである。花の色別に紅白だけでなく淡紅や濃紅からも探せるし、さらに一重と八重の区別もあって、全部で61品種の特徴を写真入りで解説している。観梅の予習・復習には格好の教材と云えよう。

 ⇒ http://www.omekanko.gr.jp/ume/zukan.htm 青梅市観光協会

 このページにはほかにも花の色や形・大きさなどの用語や色名についての解説があって観梅用としても梅の品種を知る上でも実に有用だが、もうひとつ注目したいのが「「梅の分類と特徴」を表形式で解説したページである。この表では梅の種類をまず花梅と実梅に分けている。後者は果実の収穫を目的とするものだから花より実ということで、「利用性の高い良質な実をつける品種を、果樹として分類している」といった簡略な説明しか行っていない。


 だが前者の花梅については野梅系、紅梅系、豊後系の3種に大別し、さらに詳しい細分も行っている。それによると花梅は、アンズとの雑種性の強いものがまず豊後系として分類され、残ったものが野梅系か紅梅系のいずれかに分けられる。この野梅系・紅梅系に分ける際の基準あるいは視点が、前回紹介した白梅・紅梅の問題と深く関わっている。(つづく)

  紅梅のお手玉六つ七つ八つ まさと

◆紅梅と白梅2010/02/23

 分類というのはどの部分に着目するかで結果も変わってくる。梅を例に採れば、花の色で分ける、花びらが一重か八重かで分ける、花の形で分ける、実の大きさで分ける、開花の時期に注目するなどいろいろな基準や視点がありそうだ。だが医薬品と健康食品の区別を意識せず薬局の主に勧められるまま高価な健康食品を買って飲み続け、これを医者が処方したがらない秘薬と信じ込む老人もいるように、言葉というのはよほど注意しないと思わぬところですれ違いを起こし、気づかぬまま使われ続けることも少なくない。

 食品を医薬品と信じ込んで飲み続けても心理面への影響と財布の中身への影響はあるだろうが、それが直ちに健康や病状に深刻な被害をもたらすとも思えない。だが医薬品を食品と信じて食べ続けたらどうなるだろうか。薬害などという言葉を持ちだすまでもなく、結果の恐ろしさについては容易に想像がつく。食べるほどの医薬品が手に入らないようにするためにも、この種の商品については法的な規制や対策が必要と多くの人が考えるだろう。


 話を元に戻して、では梅の場合はどうだろうか。苗木市で紅梅と聞いて買い求めた梅が無事に根付き、めでたく花芽を付けた。ところが咲いてみたら、これがどれも白い花だった。買い主は騙されたと思うだろうか、どこかで入れ違ったと思うだろうか。狐に摘まれたような気分かも知れない。この話は、白梅とか紅梅といったごく普通のありふれた言葉であっても時にその中身をよく確かめないと、思わぬ誤解や勘違いの因になることを教えている。世の中には多くの人が抱く白梅や紅梅のイメージとは別の、その道のプロだけが知る紅白を分ける基準が存在するのである。(つづく)

  白梅の青きまで咲きみちにけり 小坂順子