彌栄・弥栄・いやさか2009/04/11

高遠小彼岸桜の彌栄を祈念して
 片田舎の結婚披露宴でも、大都会の一流ホテルの結婚披露宴でも祝辞や来賓の挨拶があると必ず一度は耳にする言葉である。「それでは、ご両家の彌栄を祈念して万歳三唱を行います」などという場面に数え切れないほど遭遇した。が、未だかつて「いや栄え」などという話は聞いたことがない。目で追う日本語(文字)と耳で聞く言葉が頭の中でつながっていない証拠でもある。あるいは若いときから他人の挨拶など上の空でしか聞いていなかったのかも知れない。いずれにしても耳学問の程度は今どきの大学生かそれ以下だろう。
 本来の表記法は「彌栄」だが近年は新聞を始めとして人名用漢字の「弥」で代用される例をよく目にする。「いや」は「いよいよ」とか「ますます」とほぼ同じ意味である。特に「いよ」とは発音の上でも「や」と「よ」の差しかなく言葉の歴史を考える上では非常に近い関係にある。「いよ」は漢字「愈」(正字は逾の之繞部分を心に替えた形)の訓として用いることが多いが、この字にはどこまで進んでも(上っても)さらにその先があるというような意味合いがある。一方、「彌」の場合は徐々に増えてゆき次第に満ち溢れた状態に近づくといった感じが強いため、意味合いとしては「ますます」により近いと言える。そのためか「彌栄」という古風な感じのする言葉ではなく、「益々」(ますます)を用いる人も増えている。
 「さか」は恐らく「さかり」とか「さく」と同じような意味合いを表現する発音(声)から生まれ、後にそれぞれ別の言葉として独立したものだろう。生命がみなぎる、溢れ出るような生の充実、生きていることの実感と幸福感に充たされているといった意味合いが強い。咲き誇る満開の桜、すくすくと育つ幼子を囲んだ3世代家族などを象徴する表現であり、言外に種の保存の永続性が暗示されている。「いや」には、この暗示された永続性を公にする働きがあると言えよう。