◆青鷺(2) ― 2010/03/24
我々の姿が美しいことは世界遺産にも登録されている彼の国宝姫路城が白鷺城とも呼ばれることを思い起こしていただければお分かりでしょう。そそっかしい人の中には思いがけずアオサギを見て「鶴を見た」などと自慢する者もいるほどです。アオサギとは云いますが、背中は青みがかった灰色を帯び後頭部が黒く、何より姿の大きいことが特徴です。これがナベヅル君と勘違いされる原因になっています。もし似た姿を目にしたら後頭部から伸びる自慢の細長い2本の毛の有無、鳴くかどうかをまず確かめてください。我々は滅多に鳴きません。
青鷺や白鷺がなぜ夏の季題なのか、その理由はよく分かりません。冬の間、寒さを避けて南方へ渡るものもいますが多くの仲間は日本列島に留まって年を越します。そして桜の花の散る頃から6月にかけて高い木の上に巣をつくり雛を育てます。つまり初夏に番(つがい)を組むからだろうという人もいれば、暑さが増すころ水田や水辺に立って小魚や蛙や蟹などを追い求める姿が目に涼しいからだと説明する人もいます。人間というのはつくづく自分中心の身勝手な動物だと思わずにはいられません。
次の句は昭和20年代後半に始まった秋田県西部・男鹿半島基部の大汽水湖八郎潟の干拓事業を告発したものです。多くの人が「食糧難を解消してくれる夢の大事業」と期待に胸弾ませていた時代に、作者は別の覚めた目で湖や干潟に暮らす生き物たちを見ていたのです。青鷺をできたての新田に追いやった日本人は果たして、夢や幸せを手にしたと云えるでしょうか。今や作者の名を知る人さえ希でしょう。(了)
亡びゆく潟や青鷺田に逐はれ 児玉小秋
◎季節の言葉 彼岸 ― 2010/03/21
今日は春彼岸の中日。二十四節気の春分にあたり、太陽がほぼ真東から出てほぼ真西に沈むため昼と夜がほぼ同じ長さになるとされる日である。だが実際は東京地方の場合、日の出が5時44分・日の入りが17時53分とすでに昼間の方が9分も長くなっている。昼夜の時間は4日前には同じとなり、以後毎日少しずつ昼間の方が長くなっている。因みに17日の日の出は5時50分・日の入りは17時50分だった。ずれの原因は主に光の屈折現象にあると考えられている。
彼岸は仏教の言葉である。現世の此岸(シガン)に対する言葉であり、彼岸には生きていればこその迷いも、死に対する怖れも、失うことや別れることへの不安もない。何もかもが無の、全てを超越した理想の世界と言われている。それは長く厳しい修行の末に到達する理想の境地であり、信仰を通じて初めて拓くことのできる悟りの境地でもある。
この彼岸に春秋2回、なぜ日本人は墓参りをするのか。聖徳太子の頃に発するとも平安初期に始まるとも言われる春秋2回の仏事・彼岸会の由来は必ずしも定かではない。だがこれが大陸起源でないことはアジア諸国の仏事を見ればすぐに気づく。
列島の民が元々有していた太陽や月に対する畏敬の念に、大陸伝来の仏教信仰が巧みに結びついて生まれた新たな行事と云うべきだろう。あるいは元々土着の習俗として存在したものに、時の権力者が政策的に仏事を合流させたのかも知れない。いずれにしても昼の時間が長くなり始めるこの日、農耕民族であった祖先の人々は先祖の墓に詣でてその年の豊作を祈願し、秋は夜の時間が長くなり始める秋彼岸にその年の実りを感謝したであろうことは想像に難くない。
エコだ自然環境保護だと騒ぎ立てながら腹の中では経済や財布のことしか頭にない現世の人々・列島の民の末裔を、我が御先祖さまたちは釈迦と過ごす涅槃の世界・彼岸からどのような思いで眺めておられることか。これも此岸に生きるが故の迷いだろうか。今朝の関東地方は明け方、低気圧や寒冷前線の通過によって一時的に大気の状態が非常に不安定となり激しい風と雨と雷に見舞われた。次は今から200年ほど前に詠まれた句である。
ばくち小屋降つぶしけり彼岸雨 一茶
彼岸は仏教の言葉である。現世の此岸(シガン)に対する言葉であり、彼岸には生きていればこその迷いも、死に対する怖れも、失うことや別れることへの不安もない。何もかもが無の、全てを超越した理想の世界と言われている。それは長く厳しい修行の末に到達する理想の境地であり、信仰を通じて初めて拓くことのできる悟りの境地でもある。
この彼岸に春秋2回、なぜ日本人は墓参りをするのか。聖徳太子の頃に発するとも平安初期に始まるとも言われる春秋2回の仏事・彼岸会の由来は必ずしも定かではない。だがこれが大陸起源でないことはアジア諸国の仏事を見ればすぐに気づく。
列島の民が元々有していた太陽や月に対する畏敬の念に、大陸伝来の仏教信仰が巧みに結びついて生まれた新たな行事と云うべきだろう。あるいは元々土着の習俗として存在したものに、時の権力者が政策的に仏事を合流させたのかも知れない。いずれにしても昼の時間が長くなり始めるこの日、農耕民族であった祖先の人々は先祖の墓に詣でてその年の豊作を祈願し、秋は夜の時間が長くなり始める秋彼岸にその年の実りを感謝したであろうことは想像に難くない。
エコだ自然環境保護だと騒ぎ立てながら腹の中では経済や財布のことしか頭にない現世の人々・列島の民の末裔を、我が御先祖さまたちは釈迦と過ごす涅槃の世界・彼岸からどのような思いで眺めておられることか。これも此岸に生きるが故の迷いだろうか。今朝の関東地方は明け方、低気圧や寒冷前線の通過によって一時的に大気の状態が非常に不安定となり激しい風と雨と雷に見舞われた。次は今から200年ほど前に詠まれた句である。
ばくち小屋降つぶしけり彼岸雨 一茶
◎季節の言葉 蒲団・布団 ― 2010/02/12
夜具としての布団を季題とすることに違和感を覚える人もあろう。敷き布団は四季を問わず年中必要なものだし、掛け布団が欲しいのは秋の半ばから春先までの半年間である。特に冬の寒い間、これなしで眠ることは難しい。そう考えると布団とは掛け布団のことであり、冬の季題にしているのだろうか。多分そんな感想を持たれることだろう。まさにその通り、冬の季題として知られる。立春を過ぎたとは言え、このところの冷え込みは寒の戻りを思わせるほどに冷たい。各地で雪や冷たい雨を降らせ続けている。
蒲団きて寝たる姿や東山 嵐雪
作者の嵐雪は蕉門古参の高弟として知られる服部嵐雪のことである。この句は詠まれた当時から、俳諧を志す者の間に広く膾炙していたことが分かる。次の句は、そうした事情があって初めて詠まれたものだろう。与謝蕪村は嵐雪に師事した早野巴人の門下として知られ、嵐雪から見れば孫弟子にあたる人である。句には「東山の麓に住どころ卜したる一音法師に申遣す」との題詞が付いている。侘び寝には落ちぶれた者同士が一枚の蒲団を分け合って眠るうらぶれた物寂しいさまを彷彿とさせる響きがあり、蕪村らしい叙景と離俗を柱にした自在の境地がうかがえる。
嵐雪とふとん引合ふ侘寝かな 蕪村
○満月の無い月 ― 2010/02/09
満月の月は moon の意、無い月とはその満月をただの一度も見ることのない month のこと。今月がちょうどのその month にあたる。先月は元旦と30日が満月だった。今月は一年で最も日数が短い month である。28日しかない。次の満月は2月を通り越して3月の1日まで行ってしまう。お陰で3月はまた30日に、もう一度満月を拝める。などと、moon の満ち欠けを気にする生活も悪くないだろう。
今朝の月の出は3時12分(東京地方)だった。写真は日の出(6時35分)の少し前に撮影したものである。正午の月齢は24.8、5日後の今月14日(日)に新月を迎える。
今朝の月の出は3時12分(東京地方)だった。写真は日の出(6時35分)の少し前に撮影したものである。正午の月齢は24.8、5日後の今月14日(日)に新月を迎える。
昨年末から時折、月齢や太陰暦のことを書いているが、そのうち日本にも日本語に横文字を交えて今回の冒頭のような妙な説明をする時代がやって来るのだろうか。たまに国会の与野党論戦などをラジオで聴くと、耳慣れないカタカナ言葉が飛び交っている。新聞や放送でも、素人には意味の分からない各種のカタカナ言葉が頻繁に使われ出している。後期高齢者というと年寄りいじめの象徴のように受け取られるが、シルバーとかケアマネージャーとかジェイエーを年寄り泣かせの言葉だと非難する人はいない。それでいて日本語を大事にしろとか、漢字が読めないとか書けないとか活字離れが進んだとか、事あるごとに騒いでいる。不思議な国だ。
◆履霜堅氷至 気の早い話 ― 2010/02/08
先月、白梅日記の中でシェリーの詩について紹介した。例の「冬来たりなば春遠からじ」の句が出てくる詩のことだが、寒の季節が開け立春も過ぎたというのに日本列島は各地で大雪や地吹雪に見舞われ雪崩の被害も出ている。心は暦に期待しても、日々の気象は冷厳な自然界の法則に従って変化するのみだ。決して我々の期待を優先することはない。
そう思っているとき、秋から冬に至る季節の移り変わりを表した警句を見つけた。今度は英詩ではなく、中国周代の占いを集める易経に記された言葉だ。春から夏を通り越してしまい、いささか気の早い話にはなるが忘れないうちに紹介しておこう。
履霜堅氷至(霜を履みて堅氷至る)
堅氷は堅い氷の意。堅い氷の張る寒く冷たい真冬の季節が到来することを表している。履霜は、そうした季節の前には必ず寒さの訪れを予測させる霜の降りる時期があるものだ、霜を踏んだらそれが寒い冬の予兆であることに思いを致さなければいけないの意である。堅き氷は霜を履むより至る、と訓んだ書もある。全体として大事の前の小事を見逃すなの意とされる。いずれにしても冬が来て絶望するのも愚だし、霜が降りたくらいで騒ぎ立てても仕方がないという気もする。
⇒http://atsso.asablo.jp/blog/2010/02/01/4850612 季節の言葉 凍る・氷(2)
⇒http://atsso.asablo.jp/blog/2010/02/01/4850612 季節の言葉 凍る・氷(2)
だが寒い冬の到来と秋の霜との間には大きな差がある。冬なら春の到来までに長くても3ヵ月の辛抱で済むが、霜の場合は春の到来まで4ヵ月も5ヵ月も寒い季節を耐え抜かなければならない。耐える時間の長さに開きがある。それくらいは知っておいてよいだろう。換言すれば春が近いと浮かれていると半年後には必ず秋が来るのだぞ、その時に十分な備えがないとその先の季節は到底乗り切れないぞ、と教えているのである。
◎季節の言葉 春近し・春隣 ― 2010/02/03
文字通り、春がすぐそこまでやって来ていることを季題にしたものである。同様に春隣にも、春はもう隣まで来ている(明日はきっとこちらにも来るだろう)という感慨が込められている。
太古の昔、文明が未開だった頃の人々は今よりも寒暖の差に対して敏感だったのだろうか、それとも鈍感だったのだろうかと考えることがある。着衣の発達という点から見れば今より遙かに薄着だったろうから寒さは感じやすかったと考えたくなる。だが気温を感じ外気に耐える側の皮膚から見ればそうとも言えない気がする。
四六時中ビルの中や地下街で暮らす人はいざ知らず日中のある時間帯、毎日必ず外気に触れる生活をしている人にとって季節の変化を最も強く感じるのは日の光ではないだろうか。日の出・日の入りの時刻、そして太陽の位置・高さ、これらが変化することによって日照時間は伸び縮みするし、光の強さも格段に変わってくる。
木々の芽吹きや葉の緑など目に映ずるものももちろん季節の変化を教えてくれる。だが先ほどの寒暖の差など外気温の変化も含めて、そうした移り変わりの全てが実は太陽光によってもたらされていることを忘れてはならない。この点に思いを致すことこそエコロジーの第一歩であろう。
太古の昔、文明が未開だった頃の人々は今よりも寒暖の差に対して敏感だったのだろうか、それとも鈍感だったのだろうかと考えることがある。着衣の発達という点から見れば今より遙かに薄着だったろうから寒さは感じやすかったと考えたくなる。だが気温を感じ外気に耐える側の皮膚から見ればそうとも言えない気がする。
四六時中ビルの中や地下街で暮らす人はいざ知らず日中のある時間帯、毎日必ず外気に触れる生活をしている人にとって季節の変化を最も強く感じるのは日の光ではないだろうか。日の出・日の入りの時刻、そして太陽の位置・高さ、これらが変化することによって日照時間は伸び縮みするし、光の強さも格段に変わってくる。
木々の芽吹きや葉の緑など目に映ずるものももちろん季節の変化を教えてくれる。だが先ほどの寒暖の差など外気温の変化も含めて、そうした移り変わりの全てが実は太陽光によってもたらされていることを忘れてはならない。この点に思いを致すことこそエコロジーの第一歩であろう。
日あたりて春まぢかなり駅の土堤 山口誓子
※こんなときでないと西洋タンポポには出番が回ってこない
◎季節の言葉 節分 ― 2010/02/03
今日は節分。節分とは文字通り季節を分けるの意である。つまり本来なら春夏秋冬の年4回、季節の分かれ目・境目があるはずのものである。実際のところ例えば「源氏物語」を繙(ひもと)くと、かつてはそのようであったことに気づかされる。物語も終盤に近い「宿木」の巻には藤の花の宴の催される場面が描かれているが、そこに記された節分は現代における春の始まりの意ではない。春が終り夏が始まるときの節分である。
夏にならば三条の宮塞がる方になりぬべし、と定めて四月朔日ごろ節分とかいふ事まだしき先に渡したてまつりたまふ。
次の「東屋」の巻にも節分は登場する。薫と浮舟が宇治へ向け出立する場面に使われ、この場合は秋から冬への境目を示す節分の意となっている。
(中略)なが月はあすこそ節分と聞きしか、といひなぐさむ。けふは十三日なりけり。
このようにかつては季節季節の境目ごとに節分が意識され、境目を狙って横行すると信じられた悪鬼や病魔などの災厄を除(よ)けるための対策が講じられていた。これがいつの間にか、さほどの必要もないと思われたのか、時代とともに簡素化され、あるいは廃れて、残ったのが唯一立春前の今風の行事ということになる。
そういえば時季外れの殺風景なもの(すさまじきもの)として「昼吠ゆる犬、春の網代、三四月の紅梅の衣、嬰児の亡くなりたる産屋、火おこさぬ火桶……」と並べたて、最後に「まして節分はすさまじ」と記したのは「枕草子」の作者・清少納言である。すでに一千年前の京には、そのような冷めた目で節分の行事を眺めていた女性がいたことになる。これもまた知っておくべきだろう。
このようにかつては季節季節の境目ごとに節分が意識され、境目を狙って横行すると信じられた悪鬼や病魔などの災厄を除(よ)けるための対策が講じられていた。これがいつの間にか、さほどの必要もないと思われたのか、時代とともに簡素化され、あるいは廃れて、残ったのが唯一立春前の今風の行事ということになる。
そういえば時季外れの殺風景なもの(すさまじきもの)として「昼吠ゆる犬、春の網代、三四月の紅梅の衣、嬰児の亡くなりたる産屋、火おこさぬ火桶……」と並べたて、最後に「まして節分はすさまじ」と記したのは「枕草子」の作者・清少納言である。すでに一千年前の京には、そのような冷めた目で節分の行事を眺めていた女性がいたことになる。これもまた知っておくべきだろう。
◆大根の話 ― 2010/01/23
大根といっても役者や芝居の話ではない。寒中に収穫する甘く瑞々しい冬大根の話である。まず畑から紹介しよう。すでに多くは昨年のうちに抜き取られて市場に出荷され、自家用と近所用だけが掘り残されている。
次は販売所の様子である。畑の横に設えた屋根付きの小さな棚に水菜、ネギ、大根、白菜が並んでいる。今朝、分けていただいたのは大根2本、品種はいずれも「秋づまり」である。根首を葉が覆うので寒さに強いと言われている。だが初めにできた長い葉はほとんどが寒気に当たって萎れてしまい、今は後から芽を出した中心部の短い葉っぱだけが付いている。
大根の丈は右の長い方が75センチ余、左の短い方が70センチもあった。太さも相応に右の方がある。あまり長いので引っ張るだけでは抜くことができず、長芋並みに脇の土を掘ってから抜いたとか。長く太い方をお目にかけられないのはカメラを取りに厨房を出たスキに、あろう事か家人によって切り刻まれ漬物用の短冊にされてしまったためである。

やや厚めの輪切りにして、そのまま生で囓(かじ)ると実に美味い。ほのかな甘さがある。辛みが欲しいときは皮の引き加減で調節する。大根サラダもお勧めだ。とにかく文句なしに美味い。いくら食べても飽きないし、胃にもやさしい。引いた皮は天ぷらにすれば酒のつまみになる。葉も千切りにした浅漬けに混ぜれば余すところなく使える。もちろん味噌汁の実にもなる。寸分の無駄もない。全て消費できる有難い野菜なのである。
◎松の内 時代と言葉01 ― 2010/01/04
松の内とは門松が立ててある期間、松飾りや注連飾りが飾ってある期間という意味です。そのため地方によって元日からいつまでを指すかは一定しません。おおむね関東は六日の夕刻か七日まで、京辺りでは十五日までとするところが多いようです。
しかしそうした風習と現代のサラリーマンの生活とは全くかけ離れたものになってしまいました。例えば今日四日は大抵のサラリーマンにとって新年最初の出勤日です。昔は新年の挨拶を交わし、職場に届いた年賀状を整理したり、年末にし残した片づけなどがあればそれらを片づけて早々に退散したものです。「明日からまた頑張ろうね」と鈍(なま)った頭の準備体操をする日でした。
それがいつの頃からか、初日といえども通常通り終業時まで働くようになりました。率先したのが役所の公務員か大企業かは知りません。これを国際化とか外国並みと言うと聞こえは良いのですが、有り体に言えば気持に余裕がなくなってしまったのです。初日から残業までするサラリーマンのいることが何よりの証拠でしょう。
はらからの訪ひつ訪はれつ松の内 星野立子
核家族化が進み、訪れる人も訪れる先もめっきり減ってしまったことも確かです。それより単身で、二人で、家族で海外旅行をという向きも多いでしょう。身内同士でさえ、近年は疎遠になる親子や兄弟姉妹が少なくないとも聞きます。年に一度くらい、自然家族の三世代四世代が集まって暮らすのも悪くないだろうにと思われてなりません。
写真は昔ながらに竹を切って門口に立て、左縒りの注連縄を張って白幣を垂らした農家の新春風景です。
○百匁柿--実りの秋 ― 2009/10/18
子どもの頃、母の遣いで時々駄菓子屋に行かされた。買い物だから拾円札か伍拾円札を持たされるはずだが、そうした記憶は全くない。お金は持たず、ただ風呂敷だけを持たされて出かけたことを覚えている。そして決まって「花林糖を百匁(ひゃくめ)ください」とか「薄荷糖を百匁ください」と店先で口上を伝えた。
いまパソコンに「ひゃくめ」と打ち込んでも、正しく百匁に変換される気遣いはまずない。そんな親切な辞書は自分でつくるしかなくなった。原因は1959年(昭和34)の元旦から全面的にメートル法が採用され、それまで広く使われていた尺貫法が廃止されて久しいからである。当時、学校では混乱に備えて対策が施され、教師が口を酸っぱくして「これからは斤(きん)や匁(もんめ)ではなくグラムを使うように」と指導した。もちろん換算の方法についても熱心に教えたはずである。
このとき、お遣いの単位が300グラムに替わったのか、それとも400グラムだったのかは俄に思い出せない。相変わらず従来と同じ百匁ではなかったかと思う。ただ計算のできる母が時々ぶつぶつ文句を言っていたことだけは確かだ。制度の変更に乗じて駄菓子屋がきっと何か上手いことをしたのだろう。
写真の柿は彼岸過ぎに撮したもので、百匁柿と呼ばれる品種である。まだ色づき始めたばかりだが、11月の収穫期には見事な朱色に変っている。室(むろ)などに熟すまで置いて、それから熟れ熟れのとろりとしたところを匙(しゃじ)で掬って食べる。実際の重さは百匁(375グラム)より少し軽いかも知れない。
いまパソコンに「ひゃくめ」と打ち込んでも、正しく百匁に変換される気遣いはまずない。そんな親切な辞書は自分でつくるしかなくなった。原因は1959年(昭和34)の元旦から全面的にメートル法が採用され、それまで広く使われていた尺貫法が廃止されて久しいからである。当時、学校では混乱に備えて対策が施され、教師が口を酸っぱくして「これからは斤(きん)や匁(もんめ)ではなくグラムを使うように」と指導した。もちろん換算の方法についても熱心に教えたはずである。
このとき、お遣いの単位が300グラムに替わったのか、それとも400グラムだったのかは俄に思い出せない。相変わらず従来と同じ百匁ではなかったかと思う。ただ計算のできる母が時々ぶつぶつ文句を言っていたことだけは確かだ。制度の変更に乗じて駄菓子屋がきっと何か上手いことをしたのだろう。
写真の柿は彼岸過ぎに撮したもので、百匁柿と呼ばれる品種である。まだ色づき始めたばかりだが、11月の収穫期には見事な朱色に変っている。室(むろ)などに熟すまで置いて、それから熟れ熟れのとろりとしたところを匙(しゃじ)で掬って食べる。実際の重さは百匁(375グラム)より少し軽いかも知れない。
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