保育の禁じ手2009/04/03

 同じことを何度も行って、その行為・動作に慣れていることを日本語では「しつく」といいます。ですから「しつけ」は意識しなくても自然にその行為や動作ができるようにすることです。こうした言葉が生まれたのは「しつけ」をしないと、その行為も動作もできるようにならない、つまり「ぶしつけ」(お行儀の悪いこと)になると先人たちが考えたからでしょう。
 ところで行為とか動作と言いましたが、その中身を具体的にどんなものにするかはそれぞれの社会が決めることです。そのため地域や時代によって変化する部分も含まれています。武家と町家では共通する部分がたくさんある一方で、武家ではそれは言わないとか町家では許されるとかいう行為・動作がありました。しかし現代のような誰もが平等であるべき民主的な社会では「しつけ」は最大公約数的なものに変わり、その役目は他人に迷惑をかけないこと、他人に不快な思いをさせないことに力点が移っています。
 ところが保育園や幼稚園のような場所で、思わぬ「しつけ」の例を目にしたことがあります。夢中で遊んでいると中にはオシッコを漏らしてしまう園児がいます。すると、それを見つけた先生(保育士・教諭)がその子に向かって、ある決まった言葉を言わせようとするのです。先生はその言葉を子どもに言わせることで次のお漏らしを防ごうとしているのか、それともお漏らしの始末を引き受けさせることへの詫びを言わせようとしているのか、甲高い声で「さあどうするの、なんて言えばいいの」と叫ぶのです。
 相手に何かをしてもらうときのお願い、してもらった後のお礼は確かに人間として生きていく上で欠かせない行為・動作です。その意味で、その方法を教え礼儀作法として習慣づけることは「しつけ」のひとつと言えるのかも知れません。しかしお願いの仕方やお礼の仕方を一様一律にすることが良いかどうかは疑問です。大事なのは、相手に申し訳ないという気持や感謝の念が伝わることです。決して口先だけの問題ではないはずです。
 予防の点から見ても、ことさら先生が責め立てなくても子どもは「しまった」と気づいており、すでに衣服が濡れて不快な思いもし、周りの園児に対して恥ずかしいという顔もしています。せっかくの「しつけ」が、詫びの言葉を引き出そうとする先生の自己満足になっていないか是非みんなで点検して欲しいものです。

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