アジサイの剪定2009/06/24

 長かったアジサイの季節もそろそろ終わりに近づきました。畑の隅に植わっているアジサイなら放って置いても、どんどん増えて大きくなって花を咲かせます。丈が伸びてひょろひょろになっても、それぞれで支え合うのでしばらくは大丈夫でしょう。
 しかし出来ることなら花が終わりに近づいたとき思い切って切り取ってしまうと、より長く綺麗な花を楽しむことが出来ます。切り方はまだ咲いている花との均整を考えながら適宜、間引く感じで切り詰めるとよいでしょう。本格的な切り戻しは、最後の花が終わった7月に行います。なるべく早めに、今年伸びた枝の根元から1節か2節残して切り取ってしまいます。節というのは左右一対の葉が付いている(あるいは付いていた)ところを指します。このとき全く節を残さずに切り取ってしまうと枯れることがあります。
 残った節には来年用の新芽が出来ます。来年は、ここから伸びた枝に花が咲くわけです。気候によっては夏のうちに新芽が大きく伸びることもあります。そんなときは秋の彼岸過ぎに新芽の出来具合を見ながら、もう一度同じ方法で刈り込みを行って全体の形を整えます。要点は来年用の新芽をきちんと確保してあげることです。新しく伸びた枝でも緑色のまま冬を迎えたものは、いずれ寒さに当たって枯れてしまいます。
 なおアジサイは根が浅いので、根元が乾燥しすぎないよう枯れ草などで覆ってあげることも大切です。

○沙羅の花散って--夏便り2009/06/24

 沙羅の木はツバキ科だそうです。と言っても秋には黄葉し、葉を落とします。生育が早く、庭に植えるとたちまち背を伸ばして平屋の屋根を追い越しそうになります。落葉が雨樋を詰まらせるので、頭頂部をこまめに刈り込んで形を整えます。
 沙羅樹とも記されます。昔はてっきりこれが「平家物語」冒頭に登場する、あの沙羅双樹の片割れに違いないと思って一人で感激していました。が何のことはない、単に間違えて付けられた名前に過ぎないそうです。相手はお釈迦様ですからきっと畏れ多いとでも思ったのでしょう。夏椿に改名したのだそうです。今度はツバキが迷惑がった、というようなことはなかったのでしょうか。
 アジサイ、コブシ、アユなど日本では漢字やその訓を巡る間違いをよく眼にします。そう言えば漢字の椿もその一つです。が、改めたという話は滅多に聞きません。記憶にあるのはこの沙羅と米国第40代大統領ロナルド・レーガン(Ronald Reagan, 1981-1989)くらいなものです。この大統領の日本における前名は映画俳優のロナルド・リーガンでした。歳を取ると、一日の長さは変わらないのに一年があっという間に過ぎてゆきます。今年も気が付けば夏至を通り越していました。(完)

 沙羅散りて浄土かき暮れゆきにけり  阿波野青畝

■使い捨て(1)--新釈国語2009/06/24

 原義は、使い終わったら捨てること。しかし「捨てる」と表現された中身を吟味すると、言葉の意味も実態も単純単一なものではないことが理解できる。ひとつは使い捨てのカイロに代表される組み合わせがこれに当たる。中身が特定の使用目的に限定された造りとなっているため一度使用すると同じ目的での再使用は叶わず、必然的に廃棄するしかなくなる使用実態をいう。再資源化といっても例えばカイロの場合、中身は鉄粉、活性炭、バーミキュライト(保水剤)が普通だから庭の土に混ぜるくらいしかないだろう。
 一方、同じく使い捨てと呼ばれるものでも、カメラの場合は「捨てる」の意味が全く異なっている。このカメラは面倒なフィルムの装填を不要にして購入者に撮影という本来の目的だけに集中できるよう工夫した商品だが、現像所を巻き込んだ資源回収の仕組みを構築することによってカメラ本体の再使用や再資源化を可能にした。つまり利用者には使い捨てのように見えても決してカメラが廃棄されるわけではない。これが使用実態から見た「捨てる」のもう一つの意味である。メーカー側も近年は「レンズ付きフィルム」と呼称を改め、従来の使い捨てとは発想が異なることをアピールしている。(つづく)

■裁判員制度--新釈国語2009/06/24

 憲法以下各種の法律に精通し全ての権力から独立して良心に従いながら裁判を行うとは言っても、人を見る目においては何かと不安を抱える多くの裁判官に対し、国民が優しく救いの手を差しのべることで、無実の人が誤って罰せられるのを防ごうとする仕組み。この仕組みに国民が参加するのは(あるいは参加しなければならないのは)裁判官の誤った判断から自分たちを守るためであって、司法に対する信頼向上のためなどではない。信頼できないからこそ参加するのである。
 この制度について最高裁判所は「国民のみなさんに裁判員として刑事裁判に参加してもらい、被告人が有罪かどうか、有罪の場合どのような刑にするかを裁判官と一緒に決めてもらう制度です。」と説明しているが、罪の軽重を案ずる前にまず冤罪撲滅のためにこそ機能させる必要がある。裁判官3人+裁判員6人という数の配分も、この機能の発揮を期待させるものである。
 裁判員に選ばれた人は、「国民のみなさんが刑事裁判に参加することにより、裁判が身近で分かりやすいものとなり、司法に対する国民のみなさんの信頼の向上につながることが期待されています。」などという御為ごかしの説明に惑わされることなく、また科学的だとか証拠だとかいったことに神経を尖らせるのでもなく、何よりもまず自分の目でまっすぐに被告と向き合い、その人が起訴状に記されたような罪を犯す人間であるかないか、それをみずからの心に問うてみることが基本である。裁判員6人の目が揃いも揃ってよほどの曇ったものでない限り、6人が思うところを率直に述べることによって、足利事件のような馬鹿げた冤罪は無くせるだろう。