■後期自民党--新釈国語 ― 2009/06/25
戦後1955年(昭和30)11月、保守合同によって誕生した自由民主党の歴史を前期および後期の2つに分けて扱う際の後半部を指す言葉。その画期を何に求めるかは視点によって若干異なるが、円滑な国会運営という点で見るならば初めて参議院での過半数議席を失った1989年(平成元)7月の第15回参議院議員通常選挙がこれに該当する。また党の結束という点では集団離党が相次いだ1993年(平成5)6月を画期とすることもできる。いずれにせよ、これ以後今日に至るまでが後期自民党と呼ばれる時代である。しかし最近は、後期は既に終了し現在は末期にあるとする見方も増えている。
アジサイの挿し木 ― 2009/06/25
この季節、園芸店でもアジサイは人気商品のようだ。最近は2度咲きの品種もつくられ、年中花が楽しめるとも聞いた。無粋なことをするものだ。アジサイは梅雨の季節に咲き、その季節を感じさせてくれるからこそ楽しみも増すのである。どこの誰がつくったかは知らないが、そんなものにすぐ飛びつくような園芸店では客の質も知れたものだろう。
前にもちょっと触れたがアジサイは簡単に挿し木のできる植物である。切り取った枝を放置しても、切り口さえ乾かなければそこから根を出し、たちまち根付いてしまう。だから挿し木で簡単に増やすことができる。6月の末から7月の初めにアジサイの名所を訪れると手入れをしている植木屋さんの姿を見ることが多い。気に入った品種を見かけたら、刈り取った枝を分けてもらうのである。
鹿沼土を使うのはもったいない気がする。赤玉土で十分である。それも無ければ乾燥の少ない地面でもよいだろう。節のすぐ下を斜めにスパッと切り、その上に2節くらい残して頭は切り捨てる。葉も大きい場合はそれぞれ半分以下の面積に切ってしまう。後は切り口が乾かないうちに苗床に挿すだけである。、心配なら少し水に漬けておいてから挿すとよいだろう。節と節の半分くらいまでが地面に隠れるよう少し斜めに傾けて挿し込み、根元をしっかり押さえておく。土の表面が乾かないよう時々水をかけてやることが大切だ。
前にもちょっと触れたがアジサイは簡単に挿し木のできる植物である。切り取った枝を放置しても、切り口さえ乾かなければそこから根を出し、たちまち根付いてしまう。だから挿し木で簡単に増やすことができる。6月の末から7月の初めにアジサイの名所を訪れると手入れをしている植木屋さんの姿を見ることが多い。気に入った品種を見かけたら、刈り取った枝を分けてもらうのである。
鹿沼土を使うのはもったいない気がする。赤玉土で十分である。それも無ければ乾燥の少ない地面でもよいだろう。節のすぐ下を斜めにスパッと切り、その上に2節くらい残して頭は切り捨てる。葉も大きい場合はそれぞれ半分以下の面積に切ってしまう。後は切り口が乾かないうちに苗床に挿すだけである。、心配なら少し水に漬けておいてから挿すとよいだろう。節と節の半分くらいまでが地面に隠れるよう少し斜めに傾けて挿し込み、根元をしっかり押さえておく。土の表面が乾かないよう時々水をかけてやることが大切だ。
■総総分離--新釈日本語 ― 2009/06/25
総理総裁分離の略。総理は総理大臣、総裁は自由民主党総裁の意である。日本では衆議院で最も多くの議席を持つ政党の党首が内閣総理大臣の指名を受ける習わしとなっており、現在は衆議院第一党の自由民主党総裁が内閣総理大臣を兼ねる形になっている。総選挙で勝利し第一党になることが党首の務めであり、それが日本国総理大臣となるための唯一の道でもある。総理大臣を目指すにはその前に政党の党首に選ばれなければならず、加えて総選挙にも勝利しなければならない。総総分離は自由民主党内においては、この大原則の放棄もあり得ることを示す問題である。党内における権力構造の二重化につながるだけでなく、ひいては議院内閣制のありようにも影を落とす。慎重かつ十分な議論と必要性との上に検討されなければならないが、議論の背景に感じられるのは総選挙に負けたくないという御都合主義的な一時凌ぎの発想だけである。
○グミ(2)--夏便り ― 2009/06/25
最近、多くの大学教師から聞かれる悩みのひとつにインターネット上の「ウィキペディア(Wikipedia)」と呼ばれる無料サイトの利用がある。これを読んでコピーし、ちゃっかり自作のレポートなどに仕立てる者がいて困ると話す。そんな類のレポートには不可と書いて突き返せばよいと思うが、教師の悩みはそれほど単純なものではない。学生がそこに記された、どこの誰が書いたのか論拠も正体も不明な情報をモニターに活字で鮮明に表示されるというただそれだけの理由で頭から信じ込み、全く疑う気配すら見せないことに愕然とするのだという。
試しにこのサイトを「グミ」で検索し覗いてみた。すると、なるほど低レベルの放射能をまき散らしている。例えば次のような記述がそうだ。
方言名に「グイミ」がある。グイはとげのこと、ミは実のことをさし、これが縮まってグミとなったといわれる。
これでは栗の実も山椒の実もみな「グミ」と呼ばれなければならない。こんな内容でもひとつの説にはなるのかも知れないが、これを「フリー百科事典」なる御為ごかしの紛らわしい名称でまき散らすのは公害の垂れ流しも同然の行為だ。個人が好き勝手に記すブログとは違うと思わせるだけ質(たち)が悪い。
グミの語源を考えるためには、もっと多くの視点から検討しなければ説得力は生まれない。都合のいい方言などを持ち出すのは落語の「愚者は論に負けず」の隠居と同程度の水準だ。落語ブームで絵本にまで落語が登場するとも聞くが、皮相的な一時の現象に批判力の向上や常識の向上を期待するのは欲が深すぎる。
古代に「くみ」と呼ばれたものの正体は何なのか、そもそも土着の植物なのか、渡来したものではないのか、漢字の茱萸を当てるのは何故か等々多くの謎をひとつひとつ検証して初めて、そこに何か語源に連なるものが影のように浮かんでくるのである。テレビの娯楽番組や商業主義に踊らされるだけの語源好きでは文化の継承も発展も望めない。出版物としての国語辞典も、こうした傾向に与することがないよう十分に警戒しなければならない。(終)
試しにこのサイトを「グミ」で検索し覗いてみた。すると、なるほど低レベルの放射能をまき散らしている。例えば次のような記述がそうだ。
方言名に「グイミ」がある。グイはとげのこと、ミは実のことをさし、これが縮まってグミとなったといわれる。
これでは栗の実も山椒の実もみな「グミ」と呼ばれなければならない。こんな内容でもひとつの説にはなるのかも知れないが、これを「フリー百科事典」なる御為ごかしの紛らわしい名称でまき散らすのは公害の垂れ流しも同然の行為だ。個人が好き勝手に記すブログとは違うと思わせるだけ質(たち)が悪い。
グミの語源を考えるためには、もっと多くの視点から検討しなければ説得力は生まれない。都合のいい方言などを持ち出すのは落語の「愚者は論に負けず」の隠居と同程度の水準だ。落語ブームで絵本にまで落語が登場するとも聞くが、皮相的な一時の現象に批判力の向上や常識の向上を期待するのは欲が深すぎる。
古代に「くみ」と呼ばれたものの正体は何なのか、そもそも土着の植物なのか、渡来したものではないのか、漢字の茱萸を当てるのは何故か等々多くの謎をひとつひとつ検証して初めて、そこに何か語源に連なるものが影のように浮かんでくるのである。テレビの娯楽番組や商業主義に踊らされるだけの語源好きでは文化の継承も発展も望めない。出版物としての国語辞典も、こうした傾向に与することがないよう十分に警戒しなければならない。(終)


最近のコメント