新社会人に贈る言葉072009/04/10

 《過ちは誰にもあるが、過ちから学ぶ人は限られる》

 ヒトはサルから進化した動物です。どんなに気張ってみても、威張ってみても、背伸びしても、見栄を張っても所詮は数ある生物のひとつに過ぎません。ウンチもすればオシッコもします。ご飯を食べなければお腹が空きます。眠らなければ眠たくなり、寝ることを止めれば死んでしまいます。寝たきりでいれば歩けなくなります。暇すぎても惚(ぼ)けるし、忙しすぎても間が抜けたように失策が続きます。うっかり忘れに度忘れに忘れ物でも負けません。間違い、失敗、仕損じ、しくじり、やりそこない等々、人間は日々過ちをしながら生きている動物だとも言えるでしょう。
 ヒトの強味は、そうした失敗が必ずしも死には直結しないことです。言い換えれば、死なないからこそ人間は失敗から学ぶことができるのです。学ぶことによって、もう一段の成長が期待できるのです。失敗は「成長の母」だと思ったらよいでしょう。大事なことは失敗を悔いたり、いつまでも失敗にこだわり続けることではありません。中身が同じ失敗・よく似た失敗は決して繰り返さないよう冷静に失敗の原因・状況・背景などを分析し、大脳の失敗辞書に記録して将来に備えることです。次は中国・春秋時代の思想家孔子とその弟子たちの言行録「論語」にある言葉です。

○過ちを文(かざ)る

 失敗から何も学ばないどころか、逆に「失敗を取り繕ってごまかそうとする」ことをいいます。大事な成長の母を踏んづけるようなものです。しかし、これがかなり手強い誘惑なのです。人間だからこその弱みだとも言えます。今から心しておきましょう。

春さらば(5)2009/04/10

やっぱり春が一番!
 万葉集の面白さは和歌そのものがもつ古代の人々の奔放さや家持に代表される繊細優美な作風だけではありません。文字としての日本語の歴史を知る手掛りでもあるのです。例えば「春さらば」は「波流佐良婆」や「春去者」と記録されています。「秋さらば」も「安伎左良婆」「安伎佐良婆」「秋去者」「秋佐良婆」と4種類の書き方がなされています。「夕さらば」の場合は「暮去者」と「夕去者」に分かれています。
 これらの差が物語るのは、当時の知識人が大和言葉と漢語の知識とを照合して同じ意味をもつものを探し出そうとした苦闘の跡です。上手く見つかれば大和言葉をその漢字の訓として使い、季節の「はる」は「春」の訓に、「あき」は「秋」の訓になりました。「ゆう」の場合は「夕」の訓にも「暮」の訓にもなっています。その差は時に記録した人の知識の差であり、時にはそれぞれの漢字に対していだくイメージの差だったと言えます。
 そして見つからなければ漢字の音を一音ずつ日本語の音にあてはめたのです。「はる」が「波流」だったり、「あき」が「安伎」だったり、「さらば」に3文字の漢字が使われたり時に「去者」と漢文風に記録されたのです。万葉集には先人たちのこうした格闘や作業過程が記録されていると見ることもできるのです。是非皆さんなりの新しい楽しみ方を見つけて井上由美子さんを驚かせてあげましょう。(完)