■政治道徳--新釈国語2009/07/21

 真の政治家であれば国民の代表者として、忘れずに必ず守り続けるはずの道徳。具体的には公平無私であること、政治責任を負うこと、有権者の顔を思い信を問う勇気を忘れないことをいう。道徳には法律に見るような外的な強制力はなく常にその人の内面的な原理として働いている。そのため政治家が己(おのれ)の行動について法律を持ち出しての弁解や釈明を始めたときは、政治道徳にもとる行為があったと見なして差し支えない。真の政治家と政治家風の輩(やから)とを見分ける重要な尺度のひとつである。

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○葵違い--盛夏2009/07/21

 子どもの頃、「水戸黄門漫遊記」を講談本で読んだ。以来、葵の御紋はこの花に関係のある紋所と勝手に考えるようになった。しかし徳川氏の紋所である三葉葵は、双葉葵(ふたばあおい)の葉三枚を巴形に組み合わせたものである。立葵の葉ではない。今なら、素性も分からぬ外来種を家紋などに用いるはずがないと考えるところだが、そこが子どもだった。
 昔の本を開くと立葵を蜀葵(ショクキ)と記したものも見かける。蜀(ショク)は今の中国四川省を指す古称である。諸葛孔明の活躍でも知られる蜀ではあるが、「蜀犬日に吠ゆ」や「蜀道」などの言葉が遺る山深く霧の深い奥地という印象が強い。そこに咲く葵の意である。日本では唐葵(からあおい)と呼ばれたこともある。現代人には夏の花として馴染み深いものであっても、ここに至るまでには長い時間を要している。原産地はシルクロードの先の小アジア辺りではないかといわれる。

○やがて死ぬ、景色は--盛夏2009/07/21

 羽化したのはどうやらミンミンゼミのようです。青緑の羽の色がルビーの原石の色に見えます。地中に満6年、明日から何日生きられるでしょうか。今月いっぱい鳴き暮らせるでしょうか。梢からは蝉時雨がシャワーのように降ってきます。先に生まれた蝉たちが明日のことなど知る由もないとばかりに鳴き続けているのです。

  やがて死ぬ景色は見えず蝉の声 芭蕉

◆政界引退の美学2009/07/21

 政治と美学は本来無縁な言葉である。政治に美学は無用だし、美学に政治が顔を出すこともない。隔絶した世界において全く別々に、異なる価値観を持って語られる言葉である。これが本来の姿である。しかし過去にはそれを結びつけて考えたり、混同したあげくに物騒な行動まで起こして命を失った三島由紀夫のような例まである。用心するに越したことはない。
 衆議院がようやく解散して総選挙の日程が決まった。旗色は与党不利との専らの評判である。選挙区に帰っても出るのは苦情ばかり、なかなか激励の声を上げてくれる人はいない。同僚議員からは「迂闊に街頭演説もできない。うっかり街頭に立ったら罵声を浴びせられた」という気の毒な話まで聞こえてくる。元々それほど選挙上手というわけでもないし、女房にも苦労をかけた。この辺が引退の潮時かなと考える古参議員も少なくない。
 それに、よく考えたら武部の奴、この次からは世襲は認めないと言っていた。あいつが9月に永田町に戻って来られるとも思えない。だが、若い連中が訳も分からずに世襲廃止を実行することは十分予測できる。となると、ここは上手い口実を考えて今のうちに引退した方が賢明だ。影響力も残せる。子どもはまだ若い。どっちにしろ俺が面倒見ないことには永田町の右も左も分からない。
 前にも一度苦杯を嘗めたことがある。あのときは俺も若かった。派閥のボスに煽(おだ)てられ、女房には迷惑をかけてしまった。だが今度はそうもいかない。第一、落選してからの引退では格好が付かない。後援会長だって困るだろう。しかし俺の方から言い出せば精々、先生弱気ですねと陰口を叩かれるぐらいだ。問題にはならん。これで地盤も看板もすんなり子どもに譲り渡せる。万一、落選したって子どもなら傷がつかない。この逆風だし、後援会の頑張りが足りなかったという話で終わる。
 それに運がよければ世代交代の波に乗ることだってあり得る。女房の話では、俺のことをジミー君とか何とか呼ぶ奴がいたそうだ。パフォーマンスが足りないとか、もっとテレビに出て欲しいとか、地元の連中も困ったものだ。俺の苦労も知らないで。あそこの橋も、あの道も、あの下水道も、あの建物もみんな俺がいたからこその話ではないか。それなのに…。まあそんなことは、この際どうでもいい。
 子どもなら若さを売り物にできる。野党の候補者もまだ若い新人だ。うん、そうしよう。おい君、急いで何か政界引退の口実を考えて、記者連中を集めてくれ。

ほおずき4--梅雨明け(8)2009/07/21

 昨日は清少納言のほおずき観を紹介したので、今日は同時期に活躍したもう一人の才媛・紫式部のほおずき観も紹介しよう。「源氏物語」野分の中で光源氏が玉鬘を見舞う場の最後に彼女の印象として記されている。それによると「みづからもうち笑みたまへるいとをかしき色あひつらつきなり。ほをつきなどいふめるやうにふくらかにて髪のかかれる隙々うつくしうおぼゆ」とあって、ほおずきに対する印象は悪くない。ふっくらとした形とその色を共に好ましく思っていたことが窺える。
 ところで清少納言や紫式部の時代より100年以上前につくられた「本草和名」にも、ほおずきは登場する。この書物は当時、国内で知られた薬草一千種余りを記録したもので酸漿については「和名保々都岐一名奴加都岐」と記されている。これにより「ぬかつき」の呼称も決して特殊なものではなかったことが理解できる。(つづく)