■手段を選ばず--新釈国語2009/07/06

 手段とは、目的をとげるために採用する様々な方策のこと。手段を選ばずは、目的のためなら何でもすることをいう。来期も引き続き社長の職を続けたいと強く願う人が他の役員に金品を渡して自分を推してくれるよう頼み込む、有力候補を追い落とすために悪い評判を流すなど、時には法に触れるようなことまで行ってしまう。多くは哀れなサラリーマンか政治の世界の話であり、サラリーマンには学長も理事長も組合長も会長も月給をもらう人はみな含まれる。そうまでして「長」になりたいのか、「長」とはそれほどまでに魅力あるものなのかと不思議でならない。「○○褒章がもらえる」などと真顔で言われると返す言葉がない。政治の世界については項を改めて触れることにする。

○無駄花(2)--夏野菜2009/07/06

 今日の写真は7月2日の南瓜とは別物だが同じく雌花である。真上から覗き込むように撮影した。中央に見えるのが雌しべである。好天に恵まれ運良くハチが飛んでいれば、雌しべの中に雄しべの花粉が落ちて受粉は成功するだろう。そうなれば、この筒型の底部は7月3日の写真に写っている、出臍(でべそ)のような突起状に変わる。大きな出臍の南瓜もあれば普通の臍の南瓜もある。
 しかし開花時に雨が降るのは困る。この花には雨水こそ溜まっていなかったが、マルハナバチの飛来が少ないと気を揉んでいるところへ雨が降り出してはまさに弱り目に祟り目だ。泣きっ面にハチでもいいから来て欲しい。そうでないと私も無駄花になりかねない。せっかく築き上げた人間さまの信頼を裏切ることになる。無駄花の仲間入りはしたくない。
 と、今日は昨今の雌花の気持を代弁してみた。人間界でも最近は「娘がいい、子どもは女の子に限る」と宣(のたま)う親御さんが多いとか。だが娘の側にしてみれば、それはそれで自分の老い先まで考えたら手放しでは喜べない気分だろう。(つづく)

◎都会の田圃(1)2009/07/06

 先月の初め、連載で「田圃のある風景」をお届けしました。信濃路の山里の風景を写真とともに紹介したものです。今度は都会の田圃をお目にかけましょう。都市化が進み、都市近郊の農村風景はすっかり変わってしまいました。かつてそこが田圃や沼地だったことなど全く知らない人々が家を建て、その上で暮らしています。それを知る人も知らぬ人も、日本の原風景のひとつとしてご覧いただければ幸いです。
 第1回は代掻きの風景です。さすがに馬は登場しませんが、今ではもう懐かしくなった耕耘機が活躍しています。米作地帯で見るようなトラクターを使う農家はまずありません。つましく細やかに、しかし先祖から受け継いだ地はしっかりと守りながら暮らしています。
 なお先月の連載は次の頁から始まり6月9日に終了しています。いずれ、その続きも掲載の予定です。

 ⇒http://atsso.asablo.jp/blog/2009/06/04/ 夕暮れ--田園のある風景