■なりふり--新釈国語2009/07/12

 なりとふり。なりは身なり・服装、ふりは身振り・動作の意。多く「なりふり構わず」の形で用いられる。まだ日本が貧しかった頃はもっぱら動詞「働く」の副詞句として用いられた。近年は主に、党勢の衰退が伝えられる政党が相手の党の失策などを衝く弱点攻撃の修飾句となっている。そのため意味合いとしては前向きな印象は薄れ、非建設的で後ろ向きな感がある。

○無駄花(8)--夏野菜2009/07/12

 海軍出身の叔父はポツダム宣言受託のお陰で、平成の今日まで命を長らえることができた。妹など身内との面会も済ませ、後は出撃の命令を待つばかりというときに8月15日を迎えた。その上官が詩人の田村隆一だったことは後年、偶然に知った。
 隣人の医師も昔は飛行機乗りで、やはり田村の部下だった。飲んべえの上官を案じ、田村に飲み過ぎを諫めているうちに先に亡くなってしまった。隣人が健在の頃はふらりと近所にも姿を見せたが、叔父とそんな関係にあるとはつゆ知らず、とうとう一度も声を掛けないうちに田村も亡くなってしまった。
 ある時、叔父の家で胡瓜の食べ方が話題になった。「漬け物はやはり辛子漬けが一番夏向きだし美味いよ」と話したら、従兄弟が「煮付けも悪くないぜ」と言い出した。未だかつて胡瓜を煮て食べるという経験も発想もなかったので浮かぬ顔をしていると、突然「この人には胡瓜の味噌汁をさんざん飲まされたものだ」と、懐かしそうに田村の著書を指さしながら呟いた。
 写真は前回の胡瓜を雌花の側から撮したものである。節の付け根の太さに注目すると雄花との違いがよく分かる。(胡瓜の最終回は本日17時頃の予定)

■不安扇情戦略--新釈国語2009/07/12

 美容や健康から国際関係まで様々な事柄について人々の注意を喚起し、不安感を醸成することによって商品販売などの営利目的や軍備増強などの政治目的を遂げようとすること。扇情は本来は煽情と書き、文字通り火を団扇であおって勢いよく燃えさかるようにすることをいう。紫外線と加齢による顔や肌のシミやシワの増加を強調したり若く見えることを意識させようとする化粧品会社、加齢による精力減退などの諸症状を強調して精力剤や健康食品に目を向けさせようとする食品会社、北朝鮮の軍事強国化によるミサイルや核攻撃の恐怖心を宣伝して止まない政府やマスコミなど、近年その手口は民官を問わず多くの分野に及んでいる。背後に、こうした宣伝戦略を企画し巧妙に演出して露骨に稼ごうとする広告会社や関連業界・団体の存在があることは言うまでもない。

■政治的--新釈国語2009/07/12

 理屈や理論や通常の善悪では判断の難しい事柄について、最大多数の人々が一定の満足感を得られるよう現実的に処理するさま。こうした処理を行うためには関係者間の利害を正確に把握し、感情のもつれなどがあればそれらを元に戻して話し合いの場につかせ、円満に解決処理するための落とし所を見極めなければならない。そのため処理の過程では最善の落とし所を探る動きと合わせて、関係者をその気にさせるための策を巡らせたり、活発な駆け引きを行うことも少なくない。近年、解決に向けたこうした現実的な処理方法だけを指して政治的と称する例が増えている。この場合には駆け引きや策を弄するさまに近い意となり、元の中立的な意味合いは薄れてやや否定的な意味合いが強くなる。

○無駄花(9)--夏野菜2009/07/12

 叔父も子どもの頃は胡瓜の味噌汁など想像もできなかったそうだ。それが海軍に入り、出されたパンと味噌汁の組み合わせを前に妙な顔をしていると、田村に「貴様、海軍伝統の胡瓜の味噌汁が飲めんのか」と一喝された。そして飲んで、また驚いた。胡瓜は煮ると、生の時とはかなり異なる歯触りになる。身がしっかりしていて煮くずれることもない。
 田村はひょうきんな上官で部下には受けがよかった。飛行機乗りの指導をしながら、よく冗談や洒落を言って血気盛んな若者達を笑わせた。後にも先にも怒鳴られたのは、このときだけだと話してくれた。そこには戦後のサラリーマン時代とも違う、田村のもうひとつの顔があったようだ。
 今度姿を見かけたら味噌汁のことを聞いてみようと思っているうちに隣人が急逝し、そうこうするうちに田村も亡くなってしまった。最近は叔父の衰えも著しい。聞ける話は今のうちに聞いておかないと、みんなあの世で聞く羽目になりかねない。写真は文字通りの無駄花、雄花を撮したものである。(これで胡瓜の項は終わり、次回は茄子の予定)

◎余り苗--都会の田圃(7)2009/07/12

 先月初旬、足利事件の管家さんの釈放を伝える記事が大々的に報じられた朝のことである。ある全国紙の2面の隅に、余り苗を詠んだ句が紹介されていた。句の脇には、苗の置かれた場所である「水口」についての解説があった。一目見て「あっ、記事の筆者は稲のことを知らない人だ」と感じた。こともあろうに日常一般の水口と一緒くたにして「田んぼに水を出し入れするために畦(あぜ)を切っておく、それが水口。」と解説してあった。案の定、ルビは畦にだけ振られていた。
 この言葉は、米作りにとっては昔から大変重要な意味のある場所を指している。だから尊い場所として、そこには田の神様が祀られる。しかし購読者数日本一と言われる新聞でさえ、米作りの知識はこの程度のことに過ぎない。情けないが、これが現実だ。筆者も筆者だがブログの記事と同水準ではいけない。担当の記者がいて、デスクが控え、校閲も通っている。同じ社の同じ手続きによって農政記事が書かれ、教育批判がなされ、社会面がつくられている。氷山の一角でないことを祈りたい。
 写真の余り苗は「水口」とは別の場所に置かれている。機械植えの精度が上がり、近頃では手直しの必要はあまりないかも知れない。それでも余った苗はこうして田圃の隅などに保存され、補植や隣家などの需要に供されている。なお「水口」についてはいずれ新釈国語の中で解説してみたい。