○木槿花びっくり--盛夏2009/07/31

 ムクゲについて、これを無垢の花と言い切って何の疑問も湧かない程に白が眩しく感じられると書いた。しかし辞書つくりの先人達はどうも白には関心がなかったようだ。やれ木槿(モクキン)の字音が転化したものだとか方言に由来する呼称だなどと書いている。契沖先生の「万葉代匠記」までこの有様では、先人達は植物や花そのものを見ることなく単に机上で文献だけを眺めて考察したのかと疑わざるを得ない。考察が安易に過ぎている。
 古代においてムクゲはアサガオと呼ばれたこともあったと記すものが多い。本欄でもたびたび引用する「名義抄」に「シュン(草冠+舜)、キバチス・アサガホ」とあるのがその根拠になっている。シュンは草冠なしの舜を使うこともあり、舜英はムクゲの花の意である。キバチスは木蓮の意であり、ハスの花に似た花を付ける木か、またはハスの花のように花を咲かせる木という意だと解される。なおアサガホを今のアサガオと考える必要はない。日の出とともに美しく咲き出す花を広く呼んだものであろう。
 そう考えて「万葉集」に登場するアサガホを改めて点検すると、ムクゲと見るのは難しいことに気づく。いずれ朝顔を取り上げる際に詳しく述べることにして、ここではその根拠だけを示しておこう。山上憶良が詠んだ秋の花にアサガホが登場し、萩の花や尾花などと合わせて秋の七草と呼ばれたことは広く知られている。この歌のアサガホについては桔梗と考える説が有力である。ところが同じ「万葉集」でも次の歌になると、これを桔梗と見なしてよいかどうかはさておき、少なくとも夕方には萎むムクゲの花でないことは明白だ。夕影とは夕方の光のことである。

 朝顔は朝露負ひて咲くといへど夕影にこそ咲きまさりけれ 不知詠人

○玉紫陽花--野の花々2009/07/31

 雨が似合う花・紫陽花は挿し木で簡単に増やすことができる。このことはすでに紹介した。同じく紫陽花を名乗り、額紫陽花風の花を付ける玉紫陽花が今日の主人公である。この植物は、何もしなくても向こうから押しかけてきて勝手に芽を出し、咲き始める。一度実生を許したら、たちまち勢力を拡げ、頑強に根を張って、ざらざらする大きな葉を広げて我が物顔で居座ってしまう。雑草ではないというかも知れないが、甘い顔をして侵入を許すと後で苦労する。
 思うに庭に植えて愛でる花ではなく、谷のあまり日の射さない斜面や谷川の流れ近くにあってこそ風情も感じられるだろう。それを多少の距離を隔てて眺め、ああもう夏になったかと感じるくらいがちょうどよい。近づきすぎると、特に無粋な葉が気になる。茎も一般の紫陽花とは大違い。硬いので華奢な鋏では歯が立たない。
 この夏は総選挙で日本中がうるさくなりそうだ。「竹屋、棹竹屋」「ご不要になった電化製品…」だけでもウンザリするのに、これに選挙カーが重なっては騒音地獄が現出する。選挙の前だけ大騒ぎするのではなく玉紫陽花のように、日頃から小さな種子を静かに風に乗せて飛ばす努力もして欲しいものだ。

■屁理屈--新釈国語2009/07/31

 合理性も道理も大義も何もないのに、無理に筋道を通そうとしてつくりあげた理屈。
屁(へ)は平安時代に成立した「和名抄」にも見える言葉だが、本来の人体排出ガス以外の意に用いられるときは価値のないもの、とるに足らぬものを象徴する役割を担うことがほとんどである。しかし例外もあって、ここでは接頭語の非(ひ)と同じ役割を与えられ、それに当たらない、それ以外などの意を表している。ヘとヒの音が近いことから喧嘩の口上や口上茶番の際の洒落言葉として始まったものではないかと推測される。
 現在では政治家がマスメディアによる報道を意識して他党などを攻撃する際の、有力な手法のひとつに数えることができる。また官僚が非力な政府や議会の足下を見透かして自分たちに不都合な法案の作成に抵抗したり、それらの法案を骨抜きにする際の常套手段としても広く使われている。