■蒸し返し--新釈国語2009/07/25

 すでに解決した事柄や多くの人が忘れかけた事柄などを再び持ち出して問題にすること。本来は一度蒸して食事に供した饅頭などが食べ残って冷めたり固くなったりしたものを、もう一度蒸しなおすことで改めて食事に供されることをいう。返すは「繰り返す」の意である。蒸しなおしは食品としての質の低下を招くだけでなく、時に味や臭いや見た目をも悪くすることがあり歓迎されない。この言葉にも多分にそうした意味合いが含まれている。

○トマトと赤茄子1--夏野菜2009/07/25

 子どもの頃、近所に10人の子どもを無事に育て上げた老婆がいた。昔、乳母をお願いしたことがあり、顔を見れば必ず声を掛けてくれた。ある時、老婆の高校生になったばかりの末娘が虫垂炎を患って入院した。その頃、虫垂炎はもっぱら盲腸と呼ばれていた。お見舞いに訪ねてゆくと、普段は気丈な老婆がいつになく元気がなく部屋の隅でしょんぼりしていた。そして「赤茄子は盲腸になるから絶対に食べるなと言っておいたのに娘は食べてしまった。無事に退院できるといいが」と涙ぐんだ声で話してくれた。赤茄子とはトマトのことである。
 明治の中頃に生まれたその老婆は生涯トマトだけは決して口にしなかった。理由はトマトの種が虫垂炎の原因になると固く信じていたからだという。その話をいつ頃どこで誰から聞かされたものかは分からなかったが、老婆は信じて疑うことがなかった。老婆が亡くなった翌年、三回忌の法要が済んで10人の子ども達が母親の昔話を始めたとき、その中のひとりが「おい、母さんの言いつけは守っているか」と兄弟姉妹に尋ねた。末娘を除き全員が守っていた。虫垂炎になったのも末の娘だけだった。彼女の記憶によると、虫垂炎を患う前日か前々日かに友達の家で確かにトマトを食べたそうである。「だけど、もう盲腸は取ってしまったから兄さん、いくら食べても私は平気よ」と笑っていた。
 写真は家庭菜園などでよく目にするミニトマトである。一口にミニトマトと言っても最近は種類も多く、かなり大粒のものから小粒のものまでいろいろある。非常に丈夫で病気に強く、しかも繁殖力がある。放置すると熟した実が地上に落ちて種子が地中で越冬し、翌年また芽を出して実を付ける。場所は秘密だが、そうして野生化したミニトマトの群がる場所を知っている。その味がまた、どの農家のものよりも甘いから不思議である。

○白詰草--盛夏2009/07/25

 今はシロツメクサよりクローバーと呼んだ方がとおりがよいのかも知れぬ。味の濃い牛乳にも確かそんな名前があったように記憶する。アカツメクサとの違いは昨日も書いたとおりだが、植物分類では同じ科に属し共にヨーロッパ原産の牧草だという。日本にはきっと長崎出島のオランダ商館を通じて江戸時代にでも渡来したのだろう。
 牛乳を思い出すのも、この植物が冬場の乳牛の餌として欠かせないものだからである。刈り取った後もそのまま同じ場所に放置し、すっかり乾燥しきってから丸めて大きな干し草の束にする。そして納屋にしまうのだが、この干し草が何ともよい臭いがするのである。お日様の臭いとは多分、あの干し草になったシロツメクサなどの臭いではないだろうか。そう言えば昔、農家の布団は木綿の生地の破れから干し草が覗いていたような気がする。肌触りはざくざくして素肌には痛いが、よい臭いがしたことを覚えている。それが綿に変わったのは、いつのことだろう。
 これを「詰草」と呼ぶのは、乾燥させたものが布団の綿代わりや木箱の詰め物代わりに使われたからであろう。木箱を開けると、中に乾燥した牧草がいっぱい詰まっていて、その臭いを嗅ぎながらお目当ての品が顔を出すまで、ワクワクしながら次々に干し草を取り除いた記憶もどこかに残っている。先日、何十年ぶりかで古い辞書を繙(ひもと)いたら、中にいくつも四つ葉のクローバーの押し葉が挟んであった。誰かに贈るつもりでせっせと探し集め、押し葉をつくっていたものらしい。

■生前葬--新釈国語2009/07/25

 人間はいずれ必ず死ぬものであるという前提に立って、故人となる前のまだ元気なうちに世話になった人や旧友などを招いて宴会を催し、謝辞を述べたり懇談して最期の別れの代わりとすること。葬とは死者をほうむるの意であり理屈上は死後に行われるべきものだが、この造語はそうした意味合いを完全に無視して儀式部分だけを形式的に借用した。当人が死去した後の葬儀を、たとえ故人の遺志によるとはいえ全く行わずに済ませるかどうかは最終的には遺族が決める問題である。そのため生前葬の挙行をもって本来の葬儀が不要になるかは一概には論じられない。また死期の予測は容易ではないため、これをいつどの時点で行うかも難しい問題である。ホテルやレストランが結婚披露宴など宴会部門の売上げ減少対策に打ち出した新戦略のひとつでもある。