◆足利事件と飯塚事件の差2010/01/22

 国家による独善の最たるものは冤罪だろう。正義の名の下に警察や検察権力を行使し裁判所を利用して無実の民を苦しめ、死の恐怖に陥れ、時には本当に死に至らしめる。その一方で真犯人を見逃し、犯罪者からあかんべいされても見ぬふりをして定年を迎える。もちろん、この間ふんだんに血税を消費していることは言うまでもない。国家による独善とはいわば税金を使って人殺しさえ雇うような、想像するだに恐ろしい行為なのである。だがそれを正面から指摘する者は多くない。

 現在、宇都宮地方裁判所で再審裁判が進行中の足利事件が注目を集めている。被告の管家さんは4歳の女児を殺害した犯人として逮捕起訴され、警察官や検察官の決めつけとそれを支持した裁判官の無能さに17年もの長きにわたって苦しめられたが、幸いにも無期懲役だったため死に至るという最悪の事態だけは免れることができた。

 一方、似たような事件で同様に逮捕され、拘禁・取り調べの憂き目にあった飯塚事件の元死刑囚久間さん(故人)は終始一貫犯行を否認し続けた。2006年9月の死刑判決確定後も無罪を主張し、粘り強く再審請求を続けていた。

 ところが2008年10月28日、前月に発足したばかりの自民党麻生内閣の森英介法相の命により、判決確定から2年で早々に死刑執行されてしまった。判決の拠り所になったのは、どちらも同じ程度の水準といわれる当時のDNA鑑定である。死刑求刑を支持し平然と判決を言い渡した裁判官を含め、これらの関係者にはつくづく「人を見る目」がないのだと痛感させられる。

  ⇒http://atsso.asablo.jp/blog/2009/07/01/4404461 人を見る目
  ⇒http://atsso.asablo.jp/blog/2009/06/24/4387616 裁判員制度

 しかも久間さんの場合は証拠保全も怪しく、その口までが国家権力によって封じられた今となっては、真相は文字通り闇の中と言うしかない。これが21世紀を迎えてもなお変ることのない日本の犯罪捜査の現実である。これほど不条理なことが許されて良いものだろうか。国民の何割がこの事実を知っているだろうか。マスコミの何社がこれを新たな冤罪と疑っているだろうか。そして自分たちもまた実は加害者側であったことに気づいているだろうか。

 片や菅谷さんは権力の取り調べ術に翻弄されて自白を誘導・強制させられ、それ故に恣意的に罪一等を減じられて死刑を免れ、片や久間さんは権力による執拗な取り調べにもめげずに犯行を否認し続け、それ故に憎まれて死刑を求刑され頼みの裁判官には見放され、時の政権・法務大臣に至っては刑の執行を急ぐというまさに最悪の結果を招いてしまった。事件の現場が総理大臣の選挙区・福岡8区であったことも偶然とは言え、元死刑囚にとっては災難であったろう。

 いずれにしても二つの事件が教えるものは、この国ではたとえ一時的ではあっても権力に屈したり迎合することでしか権力の不条理な決めつけから身を守る手段がないということである。一社に一人くらい、それが無理ならせめてどこかに一社くらい、こうした不条理に気づく新聞記者かマスコミがあっても良さそうに思うのだが、やっぱり株式会社では無理だろうか。

 すでに「角を矯めて牛を殺す」における「矯める」の意味が二つの行為を指すことは説明した。これを日本の警察や検察に当てはめるならば次のようになるであろう。(1)自分たちには悪や不正を見抜く目があり、その目が曇ることも衰えることも誤ることもないと常に強い信念・自負を持つこと、(2)この信念や自負に基づいて逮捕したり取り調べたりした者は常に紛うことなき悪人であり不正の実行者であると決めつけ、万一罪の自白がなかったとしても何ら怯(ひる)むことなく起訴に持ち込み、取り調べに協力的でなかった者および自白しない者ほど重い刑が科されるよう努めること。(つづく)