黄砂と黄沙(3)2009/03/20

 実は日本でも60年ほど前までは「沙漠」を使う人が少なくなかった。谷崎潤一郎(麒麟・明治43)や中島敦(李陵・昭和18)がそうだったし、加藤まさを作詞の有名な童謡(月の沙漠・大正12)もそうである。国語辞典でも例えば大正14年(1925)出版の「廣辭林」は「沙漠」だけを表記欄に掲げている。だが同じ辞書内で他の見出しも調べると解説の一部に「砂漠」を使ったものがあり、当時の用法も決して一様ではなかったことが窺える。
 現在のように三水(沙)がすっかり影を潜め多くの人が石偏(砂)を使うようになったのは、日常使用する漢字の範囲を1850字に制限した政府による漢字政策の影響である。昭和21年(1946)11月、吉田茂内閣は「國民の生活能率をあげ、文化水準を高める上に、資するところが少くない」とする大義名分を掲げ、国語審議会の答申に基づいて「当用漢字表」を告示した。このとき三水からは多くの漢字が選ばれて表中に並んだが、そこに「沙」の姿はなかった。一方、石偏の仲間はあまり多く選ばれなかったが「砂」は目出度く表中に加わることができたというわけである。

黄砂と黄沙(4)2009/03/22

 日本で「沙漠」の使用が廃れた理由はこれだけのことである。しかしこれだけではあっても、漢字制限政策は後の「常用漢字表」にもしっかりと受け継がれ、日本人の漢字能力やその文化水準に計り知れない影響を与え続けている。彼の童謡を「月の砂漠」と信じて疑わない人がどんなに多いかを知れば、この政策が能率の向上には役立っても決して文化水準を高めてはいないことに気づくだろう。
 それにしても政府による漢字制限政策は戦後突然始まったものではない。その根っこは武家政権末期の幕末まで遡れるほど古い。戦前にも上述の「常用漢字表」と同名のものが存在し何度か改定も行われている。漢字の使い方で見る限り、昭和や平成生まれの日本人の方が明治や大正生まれの人々より政府の政策に従順と言えよう。
 最近は研究が進み、日本列島に飛来する砂塵の中に砂漠には存在しない発癌性物質などの混じることが分かってきた。研究者の間では「中国の黄沙と日本の黄砂」(沙漠研究・2003.6)というような使い分けも始まっている。人文系の研究者にも沙漠学界に負けないよう頑張って欲しいものである。

トイレが近い2009/03/23

 言葉の意味合いには絶対的なものと相対的なものとがある。「さもしい」や「いやしい」のように最初から否定的な意味合いで使われ常に前者の例に属するものもあるが、形容詞の多くはたいてい後者に属している。つまり一緒に使われる言葉によって意味合いが変わってくる。例えば「○○が近い」と言うときの「近い」はそれを聞いた人が○○をどう評価するかで変わってくる。駅のように多くの人に魅力的と映る施設であれば「近い」はプラスに働き、工場のように騒音や異臭の原因にもなりかねない施設の場合はマイナスに働く可能性が高くなる。この関係は「最近トイレが近い」の場合も同様である。歓迎すべからざる症状としてマイナス側に傾くことになる。
 とは言っても一緒に使われる言葉の影響も一様一律ではない。それぞれの言葉に対して聞き手がどのような印象をいだくかによって変わってくる。例えば「川が近い」や「海が近い」は、川で遊びたいと考える人や海に憧れをもっている人にとっては非常に魅力的な印象がある。しかし洪水や津波を恐れる人にとってはむしろ逆の印象を受け、できれば避けたい場所と感じるだろう。「トイレが近い」も実は個々の患者や家族が感じる近さであり悩みであって、医者の側から見れば患者が訴える症状説明のひとつに過ぎない。本当に近いのか・単に患者がそう感じているだけなのかは診察や検査をしてみなければ判断できない。
 相対的な言葉を使うときは単に「近い」と表現するだけでなく、その中身に応じて例えばトイレの回数や間隔、1回あたりの排出量、食事の量や中身、水分の摂取量などを具体的な数値で説明できるように日頃から心掛けておくと役に立つ。それが販売のための宣伝文句であれば、それに相応しい客観的な数字が明記されているか、客観的な数字の出所・責任の所在が明確にされているか、購入の前に確認してみる必要がある。健康でも買い物でも、こうした相対的な意味合いをもつ言葉に踊らされないことが無用な諍いを避けるコツと言えるだろう。

こぶし・拳・辛夷(1)2009/03/24

 春先あちこちを旅すると、野山に自生するこぶしが年に一度この季節だけに見せる鮮やかな白衣(びゃくえ)の立ち姿を車窓から楽しむことができる。山道の途中で下車してそば近くまで訪ねれば、春の空を背景に大樹一面に付けた小さな靴べら形の白い花びらが風に揺れ、いまを盛りと咲き競っている。俳句歳時記には田打ち桜の呼び名もあると記されているが、振り返っても里の田んぼに人影はなく、枯れ草に混じる雑草の緑を目にするのみである。こぶしの開花もやっぱり早まっているのだろうか。
 ところで、この「こぶし」を辞書で引くと、どうにも腑に落ちない説明が平然と記されていることに驚く。学名の Magnolia kobus からも察しられるように、この樹木は古くから日本列島に自生する植物である。当然、名称は大和言葉のはずである。もし「こぶし」という呼称が左右どちらかの手の指を握り締めた形に由来するとすれば漢字が伝来した後、これに「拳」の字を充てる人が出ても不思議ではない。だが、もうひとつの「辛夷」については理解に苦しむ。日本の在来種にわざわざ漢名を付す理由が分からない。

こぶし・拳・辛夷(2)2009/03/25

 しかも漢名の辛夷(しんい)は植物名というには疑問が残る生薬の名称である。花の名前というよりも開花前の未だ蕾の状態にあるものを指す漢方での呼称である。それに辛夷と呼ばれるのはこぶしの蕾に限らない。モクレン科(学名 Magnolia)の多くの花々が蕾のうちに摘み取られ乾燥されて、鎮静や鎮痛などの薬効をもつ生薬・辛夷として漢方薬や医薬品原料などに供されている。
 実は手の指を握り締めた形である拳が具体的に何を指すものかも釈然としない。例えば「広辞苑」には「葉に先だってにぎりこぶしを思わせる蕾をつけ」とあるが、これはまさに上述の生薬に利用される蕾のことであって、その形をもって拳の由来とする説明には無理がある。
 似たような説明でも、まだ「ほころびはじめは赤児の拳を連想させる」(平凡社版俳句歳時記)の方が増しである。赤ん坊が所謂「にぎにぎ」をして少しだけ指を開くと、これが咲き始めたばかりの花びらに似ている気もするからだ。だがこの状態は手のひら(掌)と称すべきものであって、5本の指全部が折り曲げられた状態を示す拳のことではない。それにこの説明は、こぶしの花びらが6弁であることを忘れている。

花冷え2009/03/25

 今年も桜の便りが聞かれる季節となった。この時季、開花の後に「どか陽気」でも続こうものなら桜は一気に満開となり、あれよあれよという間に散り失せてしまう。強い風、激しい雨も大敵である。春の嵐が吹けば、公園は一夜にして桜の花びらの散り敷く広場へと変わる。暖かすぎるのも風が吹くのも雨も、桜の季節には遠慮して欲しいと願わずにはいられない。
 しかしこの時季、実際には曇りがちの日が多かったり、はっきりしない天候が続くようだ。気象庁が発表している過去30年間(1971-2000)の気象データを見ても、3月の例えば東京の日ごとの平年値で一番日照時間が短いのは26~30日、一番降水量が多いのは25~27日である。この前後も似たような値の日が続く。総じて3月下旬は曇りがちで時には雨も降る日が多いと言えよう。
 ところが同じ統計で気温の変化を見ると、平均気温も最低気温も最高気温も3月の平年値は毎日確実に上昇し、どの日も必ず前日の数値より高くなっている。花冷えの説明に当てはまりそうな一時的な寒の戻りや冷え込みを示す気温の低下を、30年間の平年値から見つけ出すことはできない。しかし各年の日ごとの気象データを見ると、3月は中旬から下旬にかけて毎年必ずと言ってよいほど、最低気温が前日の最高気温より10度以上低くなる日のあることが分かる。
 桜の開花は、季節感としても春を決定づける出来事である。気温の平年値は確実に上昇傾向を示している。心理的にも冬物は早く片づけ、なるべく薄着になりたい。そんな気分になっているとき突然、急激に気温が低下して寒い日に逆戻りする。これが花冷えと呼ばれ、春の季語にもなっている気象現象である。

こぶし・拳・辛夷(3)2009/03/26

 こぶしの花は蕾に注目する限り、頭頂部に花びらの白が見え出す前も見え出した後も筆の先(穂先)に近い形をしている。だから、こぶしを木筆(もくひつ)と呼ぶのは大いに理解できる。漢字でそう書いて「こぶし」と呼ばせることも許されよう。だが蕾やその開き掛けが握り拳に見えるという説には賛成しがたい瑕疵がある。これらを無批判に紹介するようでは辞書の責任は果たせない。その第一責任が編者にあることは当然だが、編集部の責任も決して小さいものではない。
 では古代の人々は、こぶしの何(どこ)に拳を見たのだろうか。こぶしの春夏秋冬を観察して唯一それに該当しそうな形状を目にする時期があるとすれば、それは夏の終りから秋にかけてである。この季節、こぶしの木には花が散ったあとに果実ができ、成長するとその形が握り拳に見えないこともないからだ。もしこの拳説が当たっているとすると、古代の人々がこぶしの木に見ていたのは花ではなく果実の方だということになる。人間がその植物に何を見るかは時代によっても異なるということであろうか。
 とは言え、これはあくまでも命名の由来を拳に求めた場合の話である。他の由来が見つかれば、それはそれで検証し直さなければならない。それが辞書を編集する者の責任であり仕事でもある。

まつり縫い2009/03/27

 中学校の技術・家庭科で教える裁縫の中に「まつり縫い」と呼ばれる技法がある。この技法が生徒に適切に習得されているか3千人の中学3年生を対象に実技テストを行って調べたところ合格点に達したのは半数弱(46%)だった、と文部科学省国立教育政策研究所が発表した。男女平等・男女共同参画社会の実現を目指して高度経済成長期に設けられた技術・家庭科だが、それ以上に日本の社会から裁縫という技術そのものが廃れてしまったのではないかと危惧する。
 ところで「まつり」は名詞であるため一般には、スカートの裾を「まつる」とか「まつりつける」といった動詞形の使用例を多く目にする。「まつる」には「巻きつく」や「絡みつく」の意味があり、元は「二疋の犬がまとわりついて離れない」というときの「まとわる」や「まとわりつく」と同じ言葉だったと考えられる。恐らく「相談をまとめる」や「話がまとまる」の「まとめる」や「まとまる」とも同根だろうが、その詮索は別の機会に譲り、ここでは「まつり縫い」と「くけ縫い」の差だけを紹介する。
 「まつり縫い」は一名「まつりぐけ」とも呼ばれるように、なるべく縫い目が表から見えないよう工夫した「くけ縫い」技法の一種である。図解の助けを借りることなく文章だけで説明するのは容易ではないが、「くけ縫い」と「まつり縫い」の違いをごく単純化して言うなら、前者が単に布地の端を折り曲げて針と糸で元の布地に縫い合わせるだけの簡易な技法であるのに対し、後者は折って二重にした布地の端を表地に縫いつける際に縫い糸が文字通り表地の織り糸と絡みつくように必要最小限の量の織り糸だけを針で掬って糸を通し、次に裏側の布地の折り目から針を潜らせ少し先まで糸を通してまた表地側に針を出すという作業を繰り返してゆく。
 こうすれば表側に顔を出す縫い糸の痕跡はごくわずかとなり、縫い目が目立つことはない。前者は浴衣など廉価な着物の脇や衽(おくみ)の縫い代の始末に多用され、後者は洋服の裏地の縫いつけなどより高価な衣類の仕立てに利用される。なお手間はかかるが、さらに高級感を演出できる「奥まつり(縫い)」と呼ばれる技法もある。伝統的な裁縫技法の奥はなかなか深いと言えよう。

氷のように冷える2009/03/28

 桜は咲き始めたが、このところの夜の冷え込みは格別だ。日中も吹く風が冷たい。倉橋由美子の小説「夢の浮橋」ならまだ3月も初めだから「嵯峨野は地の底まで冷えこんで木には花もなかった」でよいのだが、来週はあちこちで入学式も始まろうというこの時季になってこれだけ冷え込むのは尋常ではない。今年の花冷えは「眠狂四郎無頼控」(柴田錬三郎作)の「花見の季節が来ていたが、夜半は、まだかなり冷える」どころではない気がする。
 ところで「冷える」という言葉の古い形は「ひゆ」である。「ひ」とは氷の意であり、「あたかも氷に囲まれているかのように徐々に気温が下がってゆく」ことを指している。文法書風に言えば「ゆ」は自発を表す助動詞ということになる。こうした原義を考えると尾崎紅葉が「多情多恨」に記した「氷のやうに冷えて」という描写は、古代人なら「馬から落ちて落馬して」並みの屋上屋を架すに等しい表現と笑うかも知れない。
 暖房に囲まれて暮らす現代人にとって「冷えますね」から即座に氷を連想する人も連想できる人もまずいないだろう。それに、これは病気で亡くなった妻の最期を思い出しての記述である。死後の体温は時間が経つにつれて下がり、徐々に外気の温度に和(か)してゆく。暖房のない広い座敷の真ん中で布団に横たわる故人の手や足は想像以上に冷えている。そこには手を握ったことのある人でなければ分からない、喩えようのない冷たさがある。

読会と聴く力2009/03/29

 内容は少し固いが大事な話である。ブログの紹介に出ている「読会」とは何でしょうかと質問された。大量の活字を使って紙に印刷する技術が発明されたのは500年以上も昔のことである。木板を使う版画のような方法もあるが、そのたびに版木を彫り直さなければならない。活字による印刷といっても、活字を拾って文字を組み、原稿に合わせて文章に仕上げなければならない。紙に刷るのはそれからである。現代のコピーのように誰でも機械さえあれば簡単に複製ができる時代は、まだ30年くらいの歴史しかない。
 そんな時代の議会審議は大変である。議案のコピーを議員に配るなどということはできなかった。そこで初期の英国議会で採用されたのが議案を読み上げ、議員に聴き取ってもらう方法だった。審議に先立ち書記官が議案を3回読み上げる。議員はこの間に必要なメモを取り、頭の中に条文や議案の骨子をしっかり叩き込まなければならない。それができなければ議員は務まらない。居眠りなどする暇はもちろんない。読み上げ役の書記官も大変である。読み間違いは即、誤解の因になる。まさに真剣勝負、ピンと張りつめた空気の中で議事は進行した。こんな芸当ができたのは、当時の人々にはまだ聴く力があったからである。
 こうしていつも議案の読み上げ(reading)から議会審議は始まることになり、いつしか reading は議案審議の方法・手順を示す言葉として使われるようになった。読会(どっかい)は、これを日本語化したものである。明治23年(1890)の帝国議会開設に先立って制定された議院運営に関する法律「議院法」には「法律ノ議案ハ三読会ヲ経テ之ヲ議決スヘシ」と記されている。この三読会は提案から審査を経て採決に至る議案審議の方法・手順を示したものである。なお議院法は昭和22年(1947)5月に廃止された。現在の国会法に読会の文字を見ることはない。