補食の罪(1)2009/04/13

 生物が他の生物をつかまえて食べる「捕食」の話ではありません。人間の話です。学校給食法施行規則第1条3項に規定する「補食給食」(完全給食以外の給食で、給食内容がミルク及びおかず等である給食をいう)の話でもありません。保育園児の話です。幼子に切ない辛い悲しい思いをさせている罪な大人の話です。
 延長保育や時間外保育を実施している保育園では一般に夕方6時を過ぎると園児に「おやつ」として軽食を出します。これが「補食」と呼ばれるものの大人側から見た説明です。帰宅後に予想される夕食の妨げにならないよう、子どもの空腹を一時的に充たすだけのごく軽い内容の食事です。ラスクと干しぶどう、ふかし芋とするめ、蒸しパンとおやつ昆布、クラッカーとプルーンなど毎日メニューが決まっていて、園児を別室に集めて食べさせます。
 問題はこの支給基準・方法にあります。仮に夕方6時までの保育で契約していても、その日の仕事の都合や交通事情により親の迎えが6時を過ぎてしまうことは容易に想像がつきます。親の側が予め余裕をもってこうした事態に対処できるよう十分に考えて行動しないと、子どもはしょっちゅう不安な気持でこの時刻を迎えることになります。誰ちゃんのママが見えた。誰くんのパパもお迎えに来た。今度はうちのママかな。あっ、違った。どうしたんだろう。子どもは玄関口ばかり気になって、いても立ってもいられません。

補食の罪(2)2009/04/14

 そうしている間にも友だちはひとり、またひとりとお迎えが来て帰ってゆきます。そして、その子が幼ければ幼いほど「もしや捨てられたのでは」という漠然とした恐怖感に襲われるのです。最も避けなければならない困った事態です。さらに、そこに追い打ちを掛けるかのように、悪い事態が起こります。それが補食という仕組みです。
 親との契約の如何に関わらず親の迎えが6時を過ぎたら機械的に補食を摂らせ、その費用は親の負担とするという原則・方式で運営されている保育園はまだよいのですが、そうでない場合はとんでもないことが起こります。6時になると他の子どもたちは保育士に促されて別室に移動し、補食を与えられます。ところが6時までの子どもは保育室に取り残されたままです。もちろん保育士はついていますが、なぜか自分だけ呼んでもらえないのです。親の姿が見えない上に、友だちは別室でおやつまでもらっています。自分にはなぜ、おやつがないのだろう。やっぱり捨てられたんだろうか。
 年少さんや3歳にも満たない幼い子どもに対し、保育士はどうやったら親の事情を説明できるでしょうか。納得させられるでしょうか。これほど非人間的な、ひどい仕打ちがあるでしょうか。幼い子どもがこうした事態をどんなに辛く切なく堪えていたかは、ようやく姿を見せた親への対応でよく分かります。親の姿を目にした途端、子どもはわっと泣いて駆け寄り、親を叩いてさらに大きな声で泣き出すのです。

新社会人に贈る言葉092009/04/14

 《友だちは選べ》

 ヒトは群れて暮らす動物です。独りの力で生きてみせるなどと決して考えてはいけません。どんなに仕事が忙しくても時には昔の友だちと会って、お喋りに時間を潰すくらいの余裕をもちたいものです。電話もメールも便利な道具ですが生き物である以上、時には顔を合わせて肉声を交わすことが重要なのです。
 さて問題は職場の同僚とどう突き合うかです。新人のうちは同期として無心に助け合うことができても、昇格や昇進などで差がつき始めると心穏やかでなくなり、疎遠になってゆくことが少なくありません。「論語」によると突き合ってもよい友だち(益者三友)とは正直な人、誠実な人、博識な人のいずれかだそうです。
 逆に突き合うべきでない人(損者三友)についても「論語」は言及しています。それによると、相手に対してへつらう人、表面的には柔和でも真心のない人、口先ばかり巧くて心が拗(ねじ)けた人です。「上役にはへつらい、立場の弱い人には威張る」などという話をよく耳にしますが、友だち選びにもある程度の時間と冷静な観察が必要です。単に馬が合うかどうかだけでなく、社会人らしい複眼的な第2第3の視点をもってじっくり構えて臨むとよいでしょう。ここでも焦りは禁物です。

補食の罪(3)2009/04/15

 この時、多くの親が発するのは「ごめんごめん」という決まり文句と、これまた決まり文句に近い遅れたことの言い訳です。詫びているのは単に迎えが遅れたというその一点だけです。子どもに、寂しさ以上の切なさ辛さやり切れなさがあったと気づく親も、それを伝えようとする職員も極めて稀と感じます。こんな時、しゃがんで子どもを強く抱きしめ一緒に泣くことができたら少しは子どもも救われるはずです。遅れた自分の不甲斐なさを率直に嘆き、子どもにこれだけの行動を取らせる大きな不安(それが何であるかは分からなくても)を子どもと分かち合うという姿勢が抜けているように感じます。
 しかし現実に保育は進行しています。多くの子どもが幼いうちに、こうした理不尽な経験をしながら育っています。これが心の傷にならないという保障がどこにあるでしょうか。補食に要する費用は1回あたり精々50~60円でしょう。どうすればこの問題を解消できるか、保育関係者も行政ももちろん親も大至急検討しなければなりません。制度や仕組みなど基本的な事柄の検討だけでなく、応急対策として即日実行に移さなければならない問題でもあるのです。
 なお補食は年長さんくらいの年齢になると一種の楽しみに変わる側面があることも事実です。親との間に必ず迎えに来てくれるという確信にも似た信頼関係が生まれ、親の仕事の事情もある程度は理解できる年齢になると「少しなら遅れてもいいよ。その分、おやつがもらえるからね」という発想が芽ばえてくるようです。親離れが始まったと見ることもできますが、保育園には0歳児から6歳児まで幅の広い年齢の乳幼児がいることを最後まで忘れずに議論を尽くして欲しいと願っています。(完)

新社会人に贈る言葉102009/04/15

 《目玉が2つあっても複眼ではない》

 前回の終わりに「社会人らしい複眼的な第2第3の視点をもって」と言いました。今日はこの「複眼的」ということについてお話ししましょう。単眼はクモ類に代表される単純な構造のレンズで、機能としては明暗に対する反応が中心です。一方、エビやカニなどの甲殻類に見られる複眼では形態を識別できるし、色彩を見分ける機能をもつものもあります。
 このように生物界では複眼の方がより高い機能をもつわけですが、人間界における複眼の意味は目玉が2つということと合わせて、物事に対する視点や見る角度やその立場が多様化することを指しています。親の庇護を受ける子ども時代であれば友だち選びは馬が合うかどうかだけで決めても、万一の場合は親が助けてくれるでしょう。しかし社会人となって独立した以上、そうした甘えや油断はもう許されないのです。
 しかし複眼的ということがビジネスの世界ではあまりに知られすぎたせいか、いつの間にか月並みな言葉として退けられ軽んじられて人々の脳裏から消え去ってしまいました。それを象徴する出来事がトヨタ自動車の赤字転落です。巷間「トヨタの教訓」としていろいろ言われていますが、世界一を目指すとした瞬間から経営のトップも他の役員も管理職も多くの人が複眼的思考を失ってしまいました。そして一般社員から工場や販売店の従業員に至るまで、トヨタ全体が単眼思考で埋め尽くされてしまったのです。

新社会人に贈る言葉112009/04/16

 《苦労も恋も若いうち》

 日本では昔から「若いうちの苦労は買ってでもしろ」と言われてきました。その意味は2つあります。ひとつは若いうちならたとえ失敗しても十分やり直しが利くということです。もうひとつは苦労した経験がその後の人生に活かされる、活かすことができるという点です。この欄の2回目に《仕事に苦しみ、人生を楽しむ》を挙げ、「焦ることなく、しかし苦しみながら自分の特技を身につけましょう。そして自分は何に生きるのが一番適しているか考えましょう」と書きました。若いうちの苦労は人生を豊かにしてくれますが、老いてからの苦労は時に寿命さえ縮めてしまいます。
 日本の国語辞書やことわざ事典にはいい加減なものが多く、大半は孫引きの集会所か総会場といったところです。例えば「艱難辛苦汝を玉にす」は西洋の格言 Adversity makes a man wise(逆境が人を賢くする)の訳語だなどといかにも自分で調べたかの如く記していますが、実は wise の後にはまだ言葉があり not rich と続きます。日本の辞書はそのことを説明していません。金持ちを夢見る人には勧められない言葉なのです。編集者が艱難辛苦を嫌い、他人の著作を無批判に孫引きした証拠と言えるでしょう。
 一方「恋も若いうち」については、熟年者や引退した団塊の世代などから抗議を受けそうです。しかし、そうした年代の人々の恋と若い世代の奔放な恋とはかなり違うもののように感じます。どんなに頑張っても逆立ちしても、人生の折返し点を過ぎてからでは、上り坂にあるときのような束縛の少ない自由な恋はできません。しようと思っても、それを許す体力がありません。年齢による分別も邪魔をすることでしょう。今のうちに、社会人としての責任を取りうる範囲で大いに異性の夢を見てください。恋もまた人生を豊かにしてくれるはずです。

初夏に向かって2009/04/16

サクラとケヤキ
 例年以上に夏の訪れが早いと感じます。
日々の暮らしの中で目にした初夏を感じる一齣(こま)を掲載します。
初回は春の代表ソメイヨシノの背後で枝を広げるケヤキの新緑です。
春から夏への交代を感じさせる風景です。

初夏に向かって022009/04/17

ヤマモミジの芽吹き
 今日はあまり天候がはっきりしません。
ヤマモミジは春の芽吹きから晩秋の紅葉まで長く楽しむことができます。
芽が出たばかりの枝は軟らかく、しかも透き通っています。
弱々しいため風に折れたり、葉先が痛んでしまうものもあります。

新社会人に贈る言葉122009/04/17

 《人生は長く、勤務時間は短し》

 一日のうち何時間を職場で過ごすか考えたことがありますか。景気のよいときは長時間労働を強いられ、不景気になれば残業はたちまち無償の奉仕に変わります。公務員であれば景気とは無関係に、なぜか年度末が忙しくなります。仕事ができる人は年中忙しいと言う人もあれば、仕事のできない要領の悪い人ほど忙しいと言う人もいます。いずれにしても一日の何割を職場で過ごすかは、これからの生き方に大きく関わってくると考えてよいでしょう。
 もし仕事は仕事、人生は人生と割り切ることができれば職場で過ごす時間の配分もおのずと計画的になるはずです。仕事以上に大きな目標が生まれ、目的が芽ばえ、それに向かって計画的に歩むはずです。そのとき、前にお話しした特技のことを忘れていなければ仕事を通じてそれを見つけ、仕事を通じてそれを身につけ、仕事を通じてその腕を磨くことができるでしょう。特技は仕事に生かされ、充実した職場生活を送り、やがて退職の日を迎えても決して特技が古びることはなく、新たな世界を得て末永く活かされ続けることでしょう。
 特技のことを忘れたり、信じられない人はどうなるでしょうか。仕事はさっさと切り上げて職場とは縁のない別の世界を見つけ、そこで憂さを晴らしたり自分流の生き方を模索するしかないでしょう。そのとき多くの人が悟るのは次の言葉です。なお給料前の週末は外出を控え自宅での骨休めをお奨めします。

○芸術は長く、人生は短し

作為と「まやかし」2009/04/17

 ある意図の下に積極的に何かを行おうとすることを「作為がある」とか「作為的」といいます。その結果、誰かにケガを負わせれば傷害罪となり、他人の財産を失敬すれば窃盗罪となります。いずれも作為によって犯罪が成立するため作為犯と呼ばれます。多くの犯罪がこれに該当しますが、誰も作為に気づかず、すぐに目立った被害もなければ(被害があっても限定的であれば)、これを犯罪に数える人はいません。
 他人を欺くことも作為のひとつです。よく「ごまかす」とか「ごまかされた」という話を耳にします。これは内容が伴わないのに目先の印象をよくしたり、見せかけだけよくすることを指しています。その代表的な例が化粧によって年齢を実際より若く見せることでしょう。
 もうひとつ「まぎらかす」という方法もあります。これは区別をわざと曖昧にしたり、非常に似通った表現を使ったり、よく似た体裁を施して識別を困難にすることです。わざと紛らわしくして「ごまかすこと」と言い換えてもよいでしょう。これが「まやかし」の意味として一番近いように感じます。「ごまかし」も「まやかし」も江戸時代後期までは遡ることができます。しかしその先については特に後者の場合、杳(よう)として知れないところがあります。
 不定期ですが、その時々に感じた「まやかし」について綴って参ります。お読みいただければ幸いです。