■下衆(1) ― 2009/09/22
いつ頃から「げす」という言葉が始まったのかは分からない。上司は元、役所の上役を指す言葉だった。その対語として下司(げし・げす)が使われている。案外このあたりから始まったのかも知れない。もしそうだとすると古墳時代も最後の頃、中国の隋や唐で始まった律令制が朝鮮半島を経由してもたらされた時代まで遡ることができる。おおよそ7世紀頃のことになる。
律令制は官僚制度を整えただけでなく、班田収授と呼ばれる財政政策を実行して国家財政の礎(いしずえ)を築き、民衆の身分をも貴賤に分けた。このとき身分の低い役人としての「げす」だけでなく、身分が低い人々をも指し示す「げす」が生まれたのかも知れない。後者はもっぱら下衆と記され、対語としては上衆(じやうず)が使われた。
それから300年ほど経った平安京の貴族社会では、「げす」は相対的な身分の差を示す際にも使われたが、より具体的な下女や使用人の意でも用いられた。この言葉が度々登場する「源氏物語」蜻蛉の巻を読むと、場面ごとに異なる意で用いられていることが分かる。例えば女二宮が降嫁して身分が下がったことに触れたくだりでは「下衆になりにたりとて、思し落とすなめり」と前者の意で使い、他の場面では「下衆はひがことも言ふなり」とか「下衆のさまにて来たれば、人多く立ち騷ぎて」と、下女や身分の低い者の意でも使っている。
また、いかにも身分の低い者が行いそうなという意味での「下衆下衆し」の使用例も見え、「例の作法など、あることども知らず、下衆下衆しく、あへなくてせられぬることかな」と軽蔑・非難の場面に利用している。さらに次の手習の巻にも「下衆」は多用されているが「下衆下衆し」に限って見ると、こちらでは「下衆下衆しき法師ばらなどあまた来て」とあって、見るからに卑しいといった意味合いに使っている。(つづく)
律令制は官僚制度を整えただけでなく、班田収授と呼ばれる財政政策を実行して国家財政の礎(いしずえ)を築き、民衆の身分をも貴賤に分けた。このとき身分の低い役人としての「げす」だけでなく、身分が低い人々をも指し示す「げす」が生まれたのかも知れない。後者はもっぱら下衆と記され、対語としては上衆(じやうず)が使われた。
それから300年ほど経った平安京の貴族社会では、「げす」は相対的な身分の差を示す際にも使われたが、より具体的な下女や使用人の意でも用いられた。この言葉が度々登場する「源氏物語」蜻蛉の巻を読むと、場面ごとに異なる意で用いられていることが分かる。例えば女二宮が降嫁して身分が下がったことに触れたくだりでは「下衆になりにたりとて、思し落とすなめり」と前者の意で使い、他の場面では「下衆はひがことも言ふなり」とか「下衆のさまにて来たれば、人多く立ち騷ぎて」と、下女や身分の低い者の意でも使っている。
また、いかにも身分の低い者が行いそうなという意味での「下衆下衆し」の使用例も見え、「例の作法など、あることども知らず、下衆下衆しく、あへなくてせられぬることかな」と軽蔑・非難の場面に利用している。さらに次の手習の巻にも「下衆」は多用されているが「下衆下衆し」に限って見ると、こちらでは「下衆下衆しき法師ばらなどあまた来て」とあって、見るからに卑しいといった意味合いに使っている。(つづく)
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