○秋茄子(1)2009/09/24

 茄子の話は先々月7月に「無駄花」と題してしている。いずれも夏野菜の話だった。そのとき確か、枝を刈り込むことで秋茄子も楽しめると書いた。秋茄子とは秋に生る茄子のことである。あるいは秋に食す茄子と言ってもよい。元々が熱帯地方の産だから、日本のように寒くなって霜枯れするようなことはない。幹は木質化して実を生らし続ける。

 ⇒http://atsso.asablo.jp/blog/2009/07/15/ 無駄花(11)
 ⇒http://atsso.asablo.jp/blog/2009/07/17/ 無駄花(12)

 だが日本の気候では越冬は難しい。昔、温室へ移して越冬をさせようと試みたことがある。しかし年末に敢えなく枯れてしまった。夜間の温度低下に対する備えをしなかったためである。日中はともかく、夜間の冷え込みに耐えきれず、たちまち枯れてしまった。

 今、嫁とか嫁さんは結婚したての男性が配偶者を指すときに使うぐらいだろう。「ウチのお嫁さん」などと口にする舅や姑も滅多にいない。第一、口にしたくても肝心のお嫁さんが来てくれない。「子どもは女の子に限る、そうでないと落ち落ち歳も取れない」といった声まで聞かれる。(つづく)

  葉かくれて年は寄けり秋茄子 露川

○シロバナサルスベリ--夏の終りに2009/09/24

 時折、白い花を付けたサルスベリを目にする。紅いと思う花の色も注意して見ると、かなり薄めのピンクもあれば濃い紅色もあって決して一様ではない。しかしピンクでも紅色でもない白一色の花を付けるサルスベリとなると、もはや百日紅と書いては不自然である。白い花の百日紅では、誰が見ても矛盾がある。
 世の中には知恵者がいるもので、どこの誰かは知らぬが「百日白」なる表記を考案した人がいる。これで「シロサルスベリ」と読んでもらうことにした。しかし本家の表記にまで手を付けるのは無理だ。「アカサルスベリ」と改めることは諦め、そのままのサルスベリを踏襲した。
 両者に、幹肌や葉の形や花の付き方などで差があるわけではない。単に花の色が異なるだけである。他の植物であれば、よく目にする普通の話といえよう。ところが日本では漢名にしては希な、花の色に注目した呼称を古代中国から輸入し、日常的に使ってきた。話がややこしくなったのは、まさにこの輸入のせいである。
 ところがところが、植物分類の世界では両者は別物として扱われる。白い花を咲かせるものは「シロバナサルスベリ」である。

 ⇒http://atsso.asablo.jp/blog/2009/09/19/ 百日紅(2)
 ⇒http://atsso.asablo.jp/blog/2009/09/16/ 百日紅(1)

■下衆(3)2009/09/24

 例えば「下衆の勘繰り」を「大辞林」で引くと「品性の卑しい者はひがみっぽくて、物事を悪く考えがちである。また、その邪推」と説明されている。下衆の意が単なる身分の貴賤ではなく、品性の問題にまで拡がっている。身分賤しい者は、その気持・精神・思考までも賤しいのだと拡大解釈されている。この解釈が富める者の立場からなされたものであること、そして貧しい者を自分たちの鏡のように見なして貶めている点に注目する必要がある。

 私たちは、こうした解釈拡大の背景にあるものが実は拝金主義であり成金趣味であると、十分には気づいていない。この1世紀余り、むしろその反対に考えて過ごしてきた。江戸時代まで、人々には拝金や成金を善しとせず、常に心のどこかで恥ずかしく思う気持が備わっていた。たとえ商人と呼ばれるような職業にあっても同様に保持されていた。

 ところが時代が明治に変り、それが資本という新しい言葉に置き換えられた途端に、みなその意味が分からなくなり、曖昧にされ、いつの間にか美化されて善いことだと教えられるようになった。官僚も企業も軍人も、アジア太平洋戦争の後は米国までが加わって、一層激しく唱えられるようになった。こうして富める者だけでなく、ついには貧しい人々の間にさえ拝金主義が蔓延(はびこ)るようになったのである。こうした風潮の果てにあって、落日の残光のように輝いたのが小泉内閣だったと言えるだろう。(了)