○白梅日記06 ― 2010/01/09
寒に入って5日目を迎えました。昨日は思わぬ通り雨にも恵まれ、私たちも一気に膨らむ準備ができました。ところが肝心の写真を撮る方が今日は一向に姿を見せません。私たちも咲いてよいものやら、お見えになるまで待つべきではないかなどと話し合っているうちに、いつの間にか日暮れ時になってしまいました。
撮してくださったのは夕日が西の山に隠れて見えなくなった頃でした。今日も好天でしたが時間が遅かったので、いつものような青い空ではなく夕方の白い空に変っていました。それでも私たちが頬を膨らませたり、口を開けてお喋りしている様子は感じていただけるものと思います。みんな早く蕾を開こうよと、うずうずしているのですから。
それから、次にお目に掛かるのは明後日だそうです。何でも急用ができて、明日も早朝から遠くへお出かけだそうです。ご容赦下さい。
○白梅日記07 ― 2010/01/11
間が悪いとはきっと、こういうことをいうのでしょう。誰も撮影に見えなかった昨日、兄姉の中に「もう待てない」と叫んで開花したものがいます。その様子をこっそりお目にかけましょう。家の老主人が「やっと咲いたか」と撮したものです。
老主人によると、暖冬だと言われる割りには例年より開花が遅いそうです。私たちは花を咲かせると、大抵のものが実になり梅干しになって食べられてしまいます。そのため兄や姉たちも私も、昔のことは学校で習う以外に何も知らないのです。
ところで兄姉弟妹の多くは、撮影に見える方の都合に合わせようと、まだ咲かずに頑張っております。白梅が義理を知らない不実な植物と言われるのは困るからです。梅にとって不実は禁句です。昨日は皆で話し合って、一日中しっかり目をつむっていました。それでもあの陽気でしたから、一昨日の写真と比べるとだいぶ口元が緩んでいます。私たちの努力も知っていただけると嬉しいです。
■角を矯めて牛を殺す--新釈国語 ― 2010/01/11
角は動物の頭頂部に突き出た円錐形の硬い突起をいい、矯めるは性癖や形状などを世間一般の価値や基準に添うよう改めることをいう。牛には2本の角があり、円を描くように互いに内側に曲がって生えているが、この場合の矯めるとは(1)自己の価値観、都合、独善などに基づいて角とは本来、垂直に生えるべきものであると決めつけること、(2)この決めつけに添って角の形状を垂直に改めるために無理に強い力を加え続けること、の二つの行為を指す。
牛を殺すとは、これら二つの行為がもたらした結果にほかならない。牛は生きていてこそ農耕にも牛車牽きにも使えるし、厩肥もつくる。だが、死しては食肉になるぐらいの用しかない。決めつけが無理強いを生み、無理強いが仇(あだ)となって牛は死に至る。死んだ牛を蘇らせることはできない。決めつけがなければ牛も死なずに済む。賢人ならば後悔する前に、まず決めつけの愚を廃さなければならない。
ところで辞書は、この言葉について「少々の欠点を直そうとして、かえってそのもの自体を駄目にする。枝葉にかかずらわって、肝心な根本をそこなうことのたとえ」と記している(大辞林)。しかし最初から角を「少々の欠点」と説いたのでは辞書の解説にはならない。これでは角の曲がりを欠点と見なす背景に何があるか伝えることができない。「肝心な根本をそこなう」ほどの愚かな行為は常に、この背景によって引き起こされる。辞書を名乗る以上、そこに身勝手な価値観に基づく独善主義の潜むことくらいは明らかにしてほしいものだ。(つづく)
牛を殺すとは、これら二つの行為がもたらした結果にほかならない。牛は生きていてこそ農耕にも牛車牽きにも使えるし、厩肥もつくる。だが、死しては食肉になるぐらいの用しかない。決めつけが無理強いを生み、無理強いが仇(あだ)となって牛は死に至る。死んだ牛を蘇らせることはできない。決めつけがなければ牛も死なずに済む。賢人ならば後悔する前に、まず決めつけの愚を廃さなければならない。
ところで辞書は、この言葉について「少々の欠点を直そうとして、かえってそのもの自体を駄目にする。枝葉にかかずらわって、肝心な根本をそこなうことのたとえ」と記している(大辞林)。しかし最初から角を「少々の欠点」と説いたのでは辞書の解説にはならない。これでは角の曲がりを欠点と見なす背景に何があるか伝えることができない。「肝心な根本をそこなう」ほどの愚かな行為は常に、この背景によって引き起こされる。辞書を名乗る以上、そこに身勝手な価値観に基づく独善主義の潜むことくらいは明らかにしてほしいものだ。(つづく)
◎季節の言葉 梅一輪 ― 2010/01/12
◎言葉の詮索 日溜まり ― 2010/01/12
秋が深まる10月も下旬に入ると日溜まりが恋しくなる。地域にもよるが、日溜まりの恋しい季節は翌年3月までは続くだろう。日溜まりとは文字通り日光の暖かさが溜まっているように感じられる場所のことである。が、辞書には次のように記されている。
○広辞苑(新村出編 岩波書店 1955)日光のよくさして暖かい場所。
○大辞林(松村明編 三省堂 1988)日あたりのよい暖かい所。建物などが風をさえぎり、吹きさらしでない場所についていう。
○大辞泉(小学館『大辞泉』編集部編・松村明監修 小学館 1995)日当たりがよくて暖かい場所。狭い範囲についていう。「公園の―」
○大辞林(松村明編 三省堂 1988)日あたりのよい暖かい所。建物などが風をさえぎり、吹きさらしでない場所についていう。
○大辞泉(小学館『大辞泉』編集部編・松村明監修 小学館 1995)日当たりがよくて暖かい場所。狭い範囲についていう。「公園の―」
上記の3例を見て気づくのは、こうしたポピュラーな言葉に対する扱いの差である。それぞれの辞書づくりの特徴が現れていると言ってもよい。「広辞苑」の場合はいかにも最終段階の人海戦術による語彙増強作業の中で加わったという感じが出ているし、「大辞泉」の場合もいかにも編集部という集団がつくりあげた可もなく不可もない辞書だという感じを正直に残している。(つづく)
○白梅日記08 ― 2010/01/12
今日は丸一日、お日様の顔を拝むことなく過ごしました。朝から曇り空が続き、そろそろ真南にお日様の影でも見えないかと思って顔を上げると、冷たいものが頬に当たりました。雨粒でした。明日は思いっきり咲いてみせるぞと意気込んでいた近くの枝の姉花は、雨粒を美味しい美味しいと舐め回すのに忙しそうでした。
私の記憶では確か寒の入りの朝、まだ暗いうちにほんの少しだけ降ったことがあります。今日はそれよりは長く降り続きました。お陰で全身に化粧水を振りかけたような瑞々しい気分に浸ることができました。これが人間でいうところの潤いでしょうか。今夜は皆、豊かな満ち足りた気分で眠りにつけそうです。
梅ひらくこころの起伏しづかなり 広瀬直人
◎言葉の詮索 日溜まり 2 ― 2010/01/13
「広辞苑」の説明では不十分だが、さりとて「大辞林」の説明をそのまま借用するのも気が引ける。その結果が「狭い範囲についていう」という抽象的な付加説明になったのだろう。だが「公園の日溜まり」という単純な作例では、公園の中のどのような場所がこれに当たるものか読者には見当が付かない。これを示す用例があって初めて及第点に達する。
では、どのような用例が理想だろうか。例えば高見順の短編「軽い骨」の冒頭に次のような一節がある。(「ぬかが」には傍点あり)
サナトリウムのその二階の窓は、コスモスの咲いた庭をへだてて、雑木林の崖に向つてゐた。窓と崖のあひだの空間に、秋の陽が、しーんと差してゐる。そのあたたかい陽だまりのなかを、夏の黄昏の、あのぬかがのやうな小さな虫が、ゆるやかに飛び交うてゐる。(「新潮」昭和29年1月号)
これを読むと、日溜まり(上記の例では「陽だまり」)がサナトリウムの建物と崖の間にできた空間であることが理解できる。そこにはコスモスが咲き、いかにも穏やかで暖かそうな場所だという感じが伝わってくる。「大辞林」に付けられた「建物などが風をさえぎり、吹きさらしでない場所についていう」は、こうした場所を一般化した説明と言える。後段を「吹きさらしにならない限られた空間をいう」と改めればさらに得点は上がるだろう。(了)
○白梅日記09 ― 2010/01/13
今日は夜が明ける前に、東の空から細い月が昇りました。よく晴れた一日でした。しかし西北から冷たい風が絶え間なく吹いていて、暖かいと感じたのは月の出から日の出の頃と、昼過ぎの一時(いっとき)だけでした。それでも昨日お目にかけた近くの枝の姉花は朝からそわそわしてお披露目の準備に追われていました。
どの枝にも開花一番乗りの兄姉がいて、老主人はまるで賤ヶ岳七本槍のようだと喜んでいます。が、私たちには何のことやらさっぱり分かりません。一斉に咲き始めた10日には3輪が競い、その後を4輪が追って、さらに写真の姉花が続きます。他にも我先にと開花を急ぐ兄姉が大勢います。きっと大寒の頃には枝という枝に白妙の花々が咲き揃うことでしょう。
隈ぐまに残る寒さやうめの花 蕪村
ただ、あまり急ぐのも考え物です。蜂も飛ばない寒い時期に無理をして咲いても、実を結ぶことができないからです。白妙の重ねの花びらを褒めそやされるのも悪くはありませんが、枝先の蕾に生まれた以上やはり最後は見事に実を結んで生涯を閉じたいものだと私たちの枝では話し合っています。
ただ、あまり急ぐのも考え物です。蜂も飛ばない寒い時期に無理をして咲いても、実を結ぶことができないからです。白妙の重ねの花びらを褒めそやされるのも悪くはありませんが、枝先の蕾に生まれた以上やはり最後は見事に実を結んで生涯を閉じたいものだと私たちの枝では話し合っています。
◎檸檬という漢字 ― 2010/01/14
先日紹介した「リモネ」のルビは、鴎外が翻訳に使用したドイツ語版の訳本に基づく Limone を仮名表記したものである。足かけ5年に及ぶドイツ留学を経験した律儀な軍医らしいルビの振り方とも言えるが、当時はまだ今のように英語の lemon (レモン)が一般化していなかったことの証拠でもあろう。
だが、さすがは漢籍に明るい鴎外である。これに檸檬なる漢字表記を宛てた。この語は漢音ではニャウボウまたはダウボウだが、日本では広くネイモウが使われる。中国音では地名の寧波(ニンポウ)などと同様、ニンモンとなる。
中国の古い字書である韻書によれば、檸は果樹の名で「木の皮は酒に入れて浸せば風を治す」(廣韻)、「木の名。皮は薬と為すべし」(集韻)と説明されている。一方、檬は「槐に似て華は黄」(廣韻)、「木の名、黄槐也」(集韻)と説明され、「広漢和辞典」はこれをマンゴーとしている。
檸は単独でもレモンの意として通るようだが、檸と檬を組み合わせ lemon なる外来の果物を漢字で示したところに中国先人の工夫が見られる。漢字の多くは表意文字としてその意味を示すために使われるが、時には他国の言葉を中国に移すための発音記号としても利用されるのである。
年明け1月の、レモンイエローと呼ばれる色に変りつつある時期の実を撮した。なお鴎外の「鴎」は正字では「區+鳥」であることをお断りしておく。
○白梅日記10 ― 2010/01/14
今日もよく晴れました。風も昨日よりは弱く感じました。午後には南西の風も吹き、昨日より暖かでした。とは言っても、やはり寒中の冷え込みには髄に応えるものがあります。弟妹の中には布団をかぶって、もう少し眠っていようよなどと言い出すものまで出る始末です。
そんな中、近くの枝では例のおませな姉花だけがはしゃいでいました。今日は朝からすっかり花びらを拡げ、足を止めて見入る人たちに愛嬌を振りまいていました。句は今日もまた蕪村先生の作です。
しら梅や誰むかしより垣の外 蕪村
私たちの枝では、ここに来て急に寒くなったのと、なるべくみんなで揃って咲きたいねと言い出すものもあって、足踏み状態が続いています。姉花のように羽ばたくには、何か今ひとつきっかけが欲しいところです。
最近のコメント