○蜂の巣作り--盛夏 ― 2009/07/22
小学校5年の頃だったと思う、友達に自然児がいて川魚のつかみ方や釣り方を手ほどきしてくれた。釣るときの餌は基本的に現地調達だった。どこにヤマメが隠れているか、どうすれば逃がさずに手づかみできるか、餌はどこに棲んでいるか等々、実に論理的で理にかなった作法であった。もちろん危険に遭わないための用心や運悪く遭遇したときの対処法まで実に丁寧に教えてくれた。もし「貴方の人生の師は誰か」と尋ねられたら、迷わずに父親と彼の名とを挙げるだろう。
ああいうことを幼い頃から、おそらく小学校に上がる前から親について見よう見まねで覚え、自分なりの理屈で整理したのだと思う。アウトドア等と訳の分からぬことをテレビや雑誌を通して付け焼き刃で覚えても所詮は架空の絵空事でしかない。山や川などの自然を目の前にすると勝手が違うから、たちまち事故に遭ってしまう。そんな連中がエコだとか環境保護だとかと知った風なことを言っても耳を傾ける気にはなれない。
そんなことを言い出す前に、道ばたの畑や田圃にゴミを捨てるなと言いたい。自分の口に入る食料がどこで栽培されているのか、まずそれを考えることから始めるべきだ。算数ができるより英語ができるより、自分の口に入る食べ物について深く考え、それらを大事にする人間でありたい。
写真はアシナガバチの巣である。蜂の頭部は大きくないが、余分な知恵は要らないし持たない生物だから生きる上で不足することも困ることもない。雨を凌ぎ外敵の目にも付きにくい場所を選んで小さな巣を築き、卵を産み、子バチを増やしながら徐々に巣を大きくしている。環境への負荷の小ささ、生き方の誠実さ、種の保存に対する熱意など蜂に学ぶべき事だって少なくないはずだ。
ああいうことを幼い頃から、おそらく小学校に上がる前から親について見よう見まねで覚え、自分なりの理屈で整理したのだと思う。アウトドア等と訳の分からぬことをテレビや雑誌を通して付け焼き刃で覚えても所詮は架空の絵空事でしかない。山や川などの自然を目の前にすると勝手が違うから、たちまち事故に遭ってしまう。そんな連中がエコだとか環境保護だとかと知った風なことを言っても耳を傾ける気にはなれない。
そんなことを言い出す前に、道ばたの畑や田圃にゴミを捨てるなと言いたい。自分の口に入る食料がどこで栽培されているのか、まずそれを考えることから始めるべきだ。算数ができるより英語ができるより、自分の口に入る食べ物について深く考え、それらを大事にする人間でありたい。
写真はアシナガバチの巣である。蜂の頭部は大きくないが、余分な知恵は要らないし持たない生物だから生きる上で不足することも困ることもない。雨を凌ぎ外敵の目にも付きにくい場所を選んで小さな巣を築き、卵を産み、子バチを増やしながら徐々に巣を大きくしている。環境への負荷の小ささ、生き方の誠実さ、種の保存に対する熱意など蜂に学ぶべき事だって少なくないはずだ。
◎一歳児(7) ― 2009/07/18
子ども達の性格がいつどこでできるものか、そのことに保育園や保育士がどのくらい関わるものか、いつも不安を抱えながら仕事をしている。子ども同士を眺めて比べることは、その目的を誤ると大きな問題を引き起こす。親が自分の子どもと他人の子どもを比較するのはあまり意味がない。あるとしたら、それは自分の顔を鏡で見て点検するくらいの意味だろう。優劣のための比較は、子どもにも自分にも不幸をもたらしかねない。
しかしだからと言って全く無関心なのも困る。最低限、自分の子どもを見守ることと思いやることくらいはして欲しい。こういう話は時に若い母親に対する非難とか批判と受け取られかねない。今どれくらい若い母親が大変な状況におかれているか、厳しい状況にあるか知らない者の言うことだと叱られそうだ。それでも、仕事を優先して子どもはその次というのは普通ではない。おかしいと思う。
朝、オムツを汚したままで保育園に子どもを預ける母親がいる。そのことに気づかないとしたらこれも問題だ。気づいていて、それを黙っているのも人間としては問題だ。アトピー性皮膚炎で見るも可哀想なほど顔から首から腕からそこら中が腫れたり、ただれている子どもを時々見かける。その子どもを朝、「ハイ、これ薬です」と、それだけ言って預けてゆく母親もいる。こういう話は挙げ出したらきりがないほど目に付くし、報告される。保育園としてどこまで踏み込んで対応すべきなのか迷い続けている。
もっと気になることがある。大勢の子どもを見ていると否応なしに発達遅滞や異常行動の問題にぶつかる。長年の経験で、歩き始める時期や言葉を話し始める時期にかなりの差があることは知っている。だからさほど心配しない。それは子どもの表情や周囲への反応を見ているとだいたい見当がつく。この点だけは恐らく母親よりも保育士の方が気づくのが早いだろう。毎日接していると勘のようなものも働く。
問題は気づいた後である。親とのよほどの信頼関係がないと迂闊なことは口に出せない。連絡帳に何かそれらしいコメントがあるとか、親の方から何かありませんかと聞かれれば、遠回しに家での様子を聞いてみるといったことも可能になる。しかし朝は忙しいから親の側にその準備がないと無理だし、夕方も時間が遅くなると担当者の都合もあってなかなかすぐには機会をつくれない。
そんなときは毎日毎日、昨日の感想は何かの間違いではないか、思い過ごしではないか、きっと取り越し苦労だろうと考えたり、表情や反応が昨日よりもよくならないかと精一杯だっこしてあげたり、おんぶしてあげたり、遊んであげたりして見守るしかない。そして、もう少し自分の子どもと向き合って一緒に過ごして欲しいと願うしかない。(終)
しかしだからと言って全く無関心なのも困る。最低限、自分の子どもを見守ることと思いやることくらいはして欲しい。こういう話は時に若い母親に対する非難とか批判と受け取られかねない。今どれくらい若い母親が大変な状況におかれているか、厳しい状況にあるか知らない者の言うことだと叱られそうだ。それでも、仕事を優先して子どもはその次というのは普通ではない。おかしいと思う。
朝、オムツを汚したままで保育園に子どもを預ける母親がいる。そのことに気づかないとしたらこれも問題だ。気づいていて、それを黙っているのも人間としては問題だ。アトピー性皮膚炎で見るも可哀想なほど顔から首から腕からそこら中が腫れたり、ただれている子どもを時々見かける。その子どもを朝、「ハイ、これ薬です」と、それだけ言って預けてゆく母親もいる。こういう話は挙げ出したらきりがないほど目に付くし、報告される。保育園としてどこまで踏み込んで対応すべきなのか迷い続けている。
もっと気になることがある。大勢の子どもを見ていると否応なしに発達遅滞や異常行動の問題にぶつかる。長年の経験で、歩き始める時期や言葉を話し始める時期にかなりの差があることは知っている。だからさほど心配しない。それは子どもの表情や周囲への反応を見ているとだいたい見当がつく。この点だけは恐らく母親よりも保育士の方が気づくのが早いだろう。毎日接していると勘のようなものも働く。
問題は気づいた後である。親とのよほどの信頼関係がないと迂闊なことは口に出せない。連絡帳に何かそれらしいコメントがあるとか、親の方から何かありませんかと聞かれれば、遠回しに家での様子を聞いてみるといったことも可能になる。しかし朝は忙しいから親の側にその準備がないと無理だし、夕方も時間が遅くなると担当者の都合もあってなかなかすぐには機会をつくれない。
そんなときは毎日毎日、昨日の感想は何かの間違いではないか、思い過ごしではないか、きっと取り越し苦労だろうと考えたり、表情や反応が昨日よりもよくならないかと精一杯だっこしてあげたり、おんぶしてあげたり、遊んであげたりして見守るしかない。そして、もう少し自分の子どもと向き合って一緒に過ごして欲しいと願うしかない。(終)
◎一歳児(6) ― 2009/07/15
日本人の寿命が驚異的に延びた一方で、見かけは普通でも排泄の感覚が麻痺してしまうお年寄りが増えた。自分では小便や大便の始末ができないため、どうしても周りに苦労を掛けることになる。そのお陰なのか、あるいはその逆なのかは知らないが、近頃のオムツは至極快適にできている。付けて快適なだけではない。オムツをしていることが分からないくらいに薄い。初回の記事には書かなかったが、竹ちゃんの子どもの年齢が分からなかった理由のひとつはこのオムツの薄さにある。顔立ちが幼児を思わせ、お尻もすっきりしているとなると、どうしても3歳ぐらいの子どもを想像してしまう。
子どものオムツの進化はこれだけに止まらない。最近は乳児でもプールに入れて遊ばせる。昔だったら何も付けずにすっぽんぽんだったと思うが、今は専用の水着オムツがある。思わずお漏らしをする子も多いはずだが、プールを汚すことはない。商売熱心なスイミングスクールが乳児の時から水に慣れさせましょう、水に親しみましょうと顧客増やしに努め、それに合わせて開発した商品らしい。
しかし決してよいことばかりではない。知人の幼稚園長は入園の条件にオムツの非着用を挙げている。年少組に入る3歳までに排泄のしつけを完了させてくださいと親に要求している。ところが、この快適オムツが災いになって、しつけがうまく進まない事例が出ているという。幼児本人がオムツをいやがったり、オムツに大小便をしたら気持ち悪がることが排泄のしつけの要点である。子どもがそう感じ始めれば程なくしつけは完了する。睡眠中もお漏らししまいとするから眠る前にトイレへ行く。
ところが普通のパンツと変わらない履き心地があって、お漏らししても不快感がない、そんな便利なオムツを使い出したらいつまでたっても卒業する必要もないし、卒業しようとも思わなくなってしまう。お年寄りもオムツを付けるまでは嫌がり激しく抵抗もするが、一度その使い心地を知ってしまうとあとは坂を下るように羞恥心も失せ、排泄の感覚も一層麻痺し、益々老いてゆくという話もある。
子犬を持ち出すのはどうかと思うが、あんな小さな幼い犬でさえしつければ家の中では必死になってオシッコを我慢する。同じことが人間の子にできないはずがない。あまり便利な新製品に頼るのは結局、しつけの手を抜くのと同じことになる。個人差はあるにしても、オムツが取れる取れないの差は何よりも、幼児本人が自分が出した汚物をどう感じるかだといことをもっと知る必要があるだろう。(つづく)
子どものオムツの進化はこれだけに止まらない。最近は乳児でもプールに入れて遊ばせる。昔だったら何も付けずにすっぽんぽんだったと思うが、今は専用の水着オムツがある。思わずお漏らしをする子も多いはずだが、プールを汚すことはない。商売熱心なスイミングスクールが乳児の時から水に慣れさせましょう、水に親しみましょうと顧客増やしに努め、それに合わせて開発した商品らしい。
しかし決してよいことばかりではない。知人の幼稚園長は入園の条件にオムツの非着用を挙げている。年少組に入る3歳までに排泄のしつけを完了させてくださいと親に要求している。ところが、この快適オムツが災いになって、しつけがうまく進まない事例が出ているという。幼児本人がオムツをいやがったり、オムツに大小便をしたら気持ち悪がることが排泄のしつけの要点である。子どもがそう感じ始めれば程なくしつけは完了する。睡眠中もお漏らししまいとするから眠る前にトイレへ行く。
ところが普通のパンツと変わらない履き心地があって、お漏らししても不快感がない、そんな便利なオムツを使い出したらいつまでたっても卒業する必要もないし、卒業しようとも思わなくなってしまう。お年寄りもオムツを付けるまでは嫌がり激しく抵抗もするが、一度その使い心地を知ってしまうとあとは坂を下るように羞恥心も失せ、排泄の感覚も一層麻痺し、益々老いてゆくという話もある。
子犬を持ち出すのはどうかと思うが、あんな小さな幼い犬でさえしつければ家の中では必死になってオシッコを我慢する。同じことが人間の子にできないはずがない。あまり便利な新製品に頼るのは結局、しつけの手を抜くのと同じことになる。個人差はあるにしても、オムツが取れる取れないの差は何よりも、幼児本人が自分が出した汚物をどう感じるかだといことをもっと知る必要があるだろう。(つづく)
◎カルガモその後--都会の田圃(10) ― 2009/07/15
先月紹介した3羽のカルガモのその後が分かった。22日の写真に写っているのは1羽の雌とそれを追う2羽の雄だった。結局1羽の雄は振られてしまった。そしてニホンザルの群れ風に言えば迷い鴨となり、今のところ伴侶に恵まれないまま1羽で過ごしている。それが今日の写真の雄である。昨今の日本社会の現実を知ると、とても他鴨事(ひとごと)とは思えない。(終)
⇒http://atsso.asablo.jp/blog/2009/06/22/ かもさん おとおり--夏便り
⇒http://atsso.asablo.jp/blog/2009/06/22/ かもさん おとおり--夏便り
◎一歳児(5) ― 2009/07/14
夕方6時を過ぎると、保育園では補食を摂らせる。ちょっとした、おやつのようなものである。乳児の場合は粉ミルクを溶いて飲ませるが満12ヵ月を過ぎると、こちらもおやつに切り替える。心配性の保育士の中には一週間分のメニューをお昼と補食に分けて保護者に示し、食べ慣れないものが混じっていないか、過去に問題を起こした食品がないか、よく点検して欲しいと頼んでいる。
しかし食材に注文が付いたという話は滅多に聞かない。多くの親はそれどころではない、というのが実情のようだ。乳児ではないが、朝からカレーの臭いを漂わせて保育園へ来る二三歳児もいる。顔見知りの子はたいてい「○○せんせー」と駆け寄って来て頬ずりなどをしてもらう。だから朝、家で何を食べさせてもらったかがすぐ分かる。私立の中には園長が信念をもって親の指導に努めるところもあると聞く。だが、公立の場合は何事も大過なくが基本である。家でどう過ごすかは役所の責任範囲ではない。何も食べてこないよりはましだろう、と近頃は半ば諦めている。
さて例の固太りの子が目出度く1歳の誕生日を迎えた日のことである。その日から補食も固形物に替わった。その日の補食は小さなお煎餅が2枚だった。1枚を口に入れ舐め回していると、溶けていつの間にかなくなってしまった。すぐに、もう1枚を口に入れた。その間、1分もかからなかった。その子は3枚目をねだった。「もうないの」と言っても承知しなかった。納得させるために、そこら中の引き出しを開けたり、箱をひっくり返したりして見せた。しかし承知しなかった。
物足りないのだ。胃袋に消化液があふれ、口に唾液が溢れ出て身体が納得できない様子だった。大きな身体の子どもに味だけは一人前の、しかし量としては中途半端なものを食べさせるのは罪である。こちらも迂闊だったが、事前に気づいたとしてもどうすることもできない。決められたとおりの時間に、予め準備されたものを決められた通りの手順で食べさせるしかない。大人でも海老煎餅などは一枚食べると、止めどなくいつまでも食べたくなって困る。最後は「ゴメンね、もうないの」と何度も謝り、抱きあげ抱きしめて補食の部屋を出た。(つづく)
しかし食材に注文が付いたという話は滅多に聞かない。多くの親はそれどころではない、というのが実情のようだ。乳児ではないが、朝からカレーの臭いを漂わせて保育園へ来る二三歳児もいる。顔見知りの子はたいてい「○○せんせー」と駆け寄って来て頬ずりなどをしてもらう。だから朝、家で何を食べさせてもらったかがすぐ分かる。私立の中には園長が信念をもって親の指導に努めるところもあると聞く。だが、公立の場合は何事も大過なくが基本である。家でどう過ごすかは役所の責任範囲ではない。何も食べてこないよりはましだろう、と近頃は半ば諦めている。
さて例の固太りの子が目出度く1歳の誕生日を迎えた日のことである。その日から補食も固形物に替わった。その日の補食は小さなお煎餅が2枚だった。1枚を口に入れ舐め回していると、溶けていつの間にかなくなってしまった。すぐに、もう1枚を口に入れた。その間、1分もかからなかった。その子は3枚目をねだった。「もうないの」と言っても承知しなかった。納得させるために、そこら中の引き出しを開けたり、箱をひっくり返したりして見せた。しかし承知しなかった。
物足りないのだ。胃袋に消化液があふれ、口に唾液が溢れ出て身体が納得できない様子だった。大きな身体の子どもに味だけは一人前の、しかし量としては中途半端なものを食べさせるのは罪である。こちらも迂闊だったが、事前に気づいたとしてもどうすることもできない。決められたとおりの時間に、予め準備されたものを決められた通りの手順で食べさせるしかない。大人でも海老煎餅などは一枚食べると、止めどなくいつまでも食べたくなって困る。最後は「ゴメンね、もうないの」と何度も謝り、抱きあげ抱きしめて補食の部屋を出た。(つづく)
○無駄花(10)--夏野菜 ― 2009/07/14
親の小言と茄子(なすび)の花は千にひとつの無駄もない、とは誰が言ったものだろうか。今その小言を言えない親が増えている。学校に入り勝手放題をして初めて他人から小言を言われるという子どもが少なくない。そのため小言に熱が入ったり小言が激しかったりすると、免疫のない未経験の子どもの中には逆上して相手に暴力を振るう者まで出る始末である。誠に困った世の中だ。
さらに困ったことに、こうした反発を恐れるあまり教師の側も子ども達に小言を言わなくなってしまった。小学校で言わなくなり、中学校で言わなくなり、高校や大学や社会にその責任を先送りしてしまった。今や先送りは官僚の特技でも政治家の特技でもなくなり、日本社会全体の特技になりつつある。
新卒といわれる社会人の卵を受け入れた職場では企業も役所もみな社員や職員に小言の予防注射を打つところから研修を始めなければならない。そうしないと自信を無くして会社や職場に足が向かなくなってしまう。すぐに辞める者まで出てしまう。経済学や経営学では決して教えることのない大量の無駄にあちこちで悩まされている。(つづく)
さらに困ったことに、こうした反発を恐れるあまり教師の側も子ども達に小言を言わなくなってしまった。小学校で言わなくなり、中学校で言わなくなり、高校や大学や社会にその責任を先送りしてしまった。今や先送りは官僚の特技でも政治家の特技でもなくなり、日本社会全体の特技になりつつある。
新卒といわれる社会人の卵を受け入れた職場では企業も役所もみな社員や職員に小言の予防注射を打つところから研修を始めなければならない。そうしないと自信を無くして会社や職場に足が向かなくなってしまう。すぐに辞める者まで出てしまう。経済学や経営学では決して教えることのない大量の無駄にあちこちで悩まされている。(つづく)
◎一歳児(4) ― 2009/07/13
生後数ヵ月から一歳未満の子ども達を何人もまとめて長期にわたって観察する機会は乳児院か保育園ぐらいにしかない。小児科医には地域の乳児に広く接する機会が与えられていても、定期検診か親が子どもに何らかの異常を感じたときでなければ訪れることはない。それに何人かの子どもをまとめて診るということもない。異常が解消されれば来なくなる。保健所が行う定期検診でも事情は同じだろう。だから保育園に預けている乳児のことを一番よく知っているのは母親かまたは担当の保育士ということになる。
全部で8人いる乳児の中に目立って大きな女の子がいて、もうすぐ誕生日を迎える。つかまり立ちもできるし、元々が活発な子でよく動き回るから目が離せない。保育園に来たのはまだ這い這いができる前だったが、まるでオットセイか何かのように大きな身体でごろごろと転げ回った。とても同年齢とは思えないほどの体重がある。小さな子が下敷きにされ、窒息するのではないかとハラハラした。
この子の姉も保育園にいるが決して身体は大きい方ではない。ごく普通の体格をしている。母親に聞くとずっと母乳で育ててきたという。保育園にいる間はミルクを飲ませたが、家ではつい最近まで母乳だけだった。両親の体格も普通である。いわゆる固太(かたぶと)りなのかも知れない。決してぶよぶよしたところはなく、肉付きは固く締まっている。しかも性格が猪突猛進型なのか、目の前に乳児が寝ていようが遊んでいようが構わずに真っ直ぐ這ってゆく。欲しいと思えば腕力で奪ってしまう。
最近はこれに頭突きが加わって閉口している。どこで覚えたか相手の子におでこをがつんとぶつける。本人はどうも遊びか挨拶のつもりらしい。しかしぶつけられた方はたまらない。驚いて火がついたように泣き出す。「わぁ、またやった」と保育士が現場に急行して宥(なだ)める。乳児の世話は一人で3人の子を委されるが、この子だけはそうもいかない。人一倍手が掛かる。
しかし憎めない子でみんなが気に掛け、みんなから可愛がられている。夕方には姉も顔を見せ、部屋の隅から心配そうに覗いてゆく。ちょうどその頃に人一倍大きなウンチをしてみせるのも、この子ならではの技と言えるだろう。(つづく)
全部で8人いる乳児の中に目立って大きな女の子がいて、もうすぐ誕生日を迎える。つかまり立ちもできるし、元々が活発な子でよく動き回るから目が離せない。保育園に来たのはまだ這い這いができる前だったが、まるでオットセイか何かのように大きな身体でごろごろと転げ回った。とても同年齢とは思えないほどの体重がある。小さな子が下敷きにされ、窒息するのではないかとハラハラした。
この子の姉も保育園にいるが決して身体は大きい方ではない。ごく普通の体格をしている。母親に聞くとずっと母乳で育ててきたという。保育園にいる間はミルクを飲ませたが、家ではつい最近まで母乳だけだった。両親の体格も普通である。いわゆる固太(かたぶと)りなのかも知れない。決してぶよぶよしたところはなく、肉付きは固く締まっている。しかも性格が猪突猛進型なのか、目の前に乳児が寝ていようが遊んでいようが構わずに真っ直ぐ這ってゆく。欲しいと思えば腕力で奪ってしまう。
最近はこれに頭突きが加わって閉口している。どこで覚えたか相手の子におでこをがつんとぶつける。本人はどうも遊びか挨拶のつもりらしい。しかしぶつけられた方はたまらない。驚いて火がついたように泣き出す。「わぁ、またやった」と保育士が現場に急行して宥(なだ)める。乳児の世話は一人で3人の子を委されるが、この子だけはそうもいかない。人一倍手が掛かる。
しかし憎めない子でみんなが気に掛け、みんなから可愛がられている。夕方には姉も顔を見せ、部屋の隅から心配そうに覗いてゆく。ちょうどその頃に人一倍大きなウンチをしてみせるのも、この子ならではの技と言えるだろう。(つづく)
◎補植風景--都会の田圃(8) ― 2009/07/13
人間にはずぼらと評される人もいれば几帳面と言われる人もいる。昔、数を頼みに大勢の人が田植えに参加した時代はその家の主人(あるじ)の性格によって、植えた苗の手直しや補植の風景は大きく違ったように記憶する。苗の間隔の調整に重きをおく人もいれば、本数を気にする人もいる。少ないと感じれば足し、多いと感じればその分を分けて別にする。だから仕事にはその人の美的な部分が否応なしに現れた。何でそんな面倒なことをするのだと聞かれても、それが米作りだからと答えるしかない。
大規模米作農家のことは知らない。しかし多くの先人達がしてきた米作りとはそのようなものであった。その人の性格が現れるほど多くの愛情を注いできたのだ。炎天下での田の草取りなど、一度でも経験した人でなければその辛さ、腰の痛さは分からないだろう。何も知らない人間が尤もらしく無農薬栽培などと口で言うのは簡単だが、それだけの努力を傾注して果たして作り手が報われるかどうかは甚だ怪しい。
無農薬の田圃は雀もよく知っていて、群がって襲いかかってくる。敵は稲熱(いもち)病やイナゴだけではない。誰かが守ってくれるわけでもない。時には時代遅れと誹(そし)られながら先祖から受け継いだ田畑を必死に耕し、自分達で考え守ってきたのが都市近郊の農業だ。徳さんも自分と家族のことを思えばこそできる仕事であって、決して商品化や現金化が主目的ではない。「うちはまだ一昨年の米を食べているんだよ」とは奥さんの言葉だ。いつ田圃が消えるかと案じられてならない。
大規模米作農家のことは知らない。しかし多くの先人達がしてきた米作りとはそのようなものであった。その人の性格が現れるほど多くの愛情を注いできたのだ。炎天下での田の草取りなど、一度でも経験した人でなければその辛さ、腰の痛さは分からないだろう。何も知らない人間が尤もらしく無農薬栽培などと口で言うのは簡単だが、それだけの努力を傾注して果たして作り手が報われるかどうかは甚だ怪しい。
無農薬の田圃は雀もよく知っていて、群がって襲いかかってくる。敵は稲熱(いもち)病やイナゴだけではない。誰かが守ってくれるわけでもない。時には時代遅れと誹(そし)られながら先祖から受け継いだ田畑を必死に耕し、自分達で考え守ってきたのが都市近郊の農業だ。徳さんも自分と家族のことを思えばこそできる仕事であって、決して商品化や現金化が主目的ではない。「うちはまだ一昨年の米を食べているんだよ」とは奥さんの言葉だ。いつ田圃が消えるかと案じられてならない。
◎一歳児(3) ― 2009/07/11
保育園に預けられた乳児がいわゆる人見知りをしなくなると、今度は保育士への甘えっ子競争が始まる。知恵が付くということの発現でもあろう。子ども同士で張り合い、競い合って保育士の奪い合いを始める。集団における生存競争に初めて参加した記念すべき瞬間でもある。こんな芸当は一日の大半を家の中で母親と過ごす一般の子どもには全く想像も付かない、保育園に預けられた子どもなればこその知恵であり経験と言えるだろう。こうして子どもたちは集団の中で逞しく育ってゆく。これが保育園における保育の特徴であり、利点でもある。
しかしこれを利点として単純に喜んでよいかどうかは、保育士たちも自問自答しながら過ごしている。中には朝の7時から夜の7時まで一日の半分12時間を保育園で過ごす子どももいる。自宅に帰るのは夜の眠る時間とその前後だけである。この点だけでいうなら猛烈サラリーマンの父親とあまり差がない。早い子は生後3ヵ月目からこうした生活を始めている。
知恵が付くということは当然、どんな知恵が付くのかその中身が問題にされなければならない。無垢の子どもが有垢の子どもに変わるのが知恵が付くという言葉のもうひとつの側面でもある。責任の大きさ、事の重大さを思うと「眠れなくなります」と漏らす保育士もいる。メディアが伝える小学生や中学生のよくない噂を耳にするたびに「自分が接した子どもではないだろうな、ないはずだと祈ってしまう」という。(つづく)
しかしこれを利点として単純に喜んでよいかどうかは、保育士たちも自問自答しながら過ごしている。中には朝の7時から夜の7時まで一日の半分12時間を保育園で過ごす子どももいる。自宅に帰るのは夜の眠る時間とその前後だけである。この点だけでいうなら猛烈サラリーマンの父親とあまり差がない。早い子は生後3ヵ月目からこうした生活を始めている。
知恵が付くということは当然、どんな知恵が付くのかその中身が問題にされなければならない。無垢の子どもが有垢の子どもに変わるのが知恵が付くという言葉のもうひとつの側面でもある。責任の大きさ、事の重大さを思うと「眠れなくなります」と漏らす保育士もいる。メディアが伝える小学生や中学生のよくない噂を耳にするたびに「自分が接した子どもではないだろうな、ないはずだと祈ってしまう」という。(つづく)
◎カルガモ夫婦--都会の田圃(6) ― 2009/07/11
カモの婚姻も両性の合意によって成立し維持されるようです。一時的ですがカップルを組み、つがいで行動します。それがちょうど今頃の時期に当たります。毎年こうしたカモのつがいを見かけます。そして卵を産み、雛を育てます。卵を抱くのも雛を育てるのもメスの役目です。メスが子育てに忙しく、オスのことを構わなくなるのが原因かどうかは知りませんがカップルはいつの間にか解消され、赤の他鴨に戻ります。
カモの雌雄の区別はあまり自信がありません。が多分、手前に見えるのがオスで、前を行くのがメスでしょう。水田に水が入る頃、決まってやってきて稲の丈が大きく伸びるまでこの辺りで過ごします。都会からそう遠くない場所でこんな風景を楽しめるのも皆、篤農家の徳さんのお陰です。
カモの雌雄の区別はあまり自信がありません。が多分、手前に見えるのがオスで、前を行くのがメスでしょう。水田に水が入る頃、決まってやってきて稲の丈が大きく伸びるまでこの辺りで過ごします。都会からそう遠くない場所でこんな風景を楽しめるのも皆、篤農家の徳さんのお陰です。





最近のコメント